忘れられない男への想いを、「怒り」でかき消すことはできるのか?
そのテーマに黒山墨字が新しい解釈の演出で向き合う。
カメレオン俳優阿良也の脅威の演じ分けにも注目!
目次
あらすじ
舞台『羅刹女』サイド乙の公演。
千世子の進化が際立っていたが、それを支える共演の明神阿良也のカメレオン演技にスポットが当てられる。
並の俳優ではできない阿良也が見せた「孫悟空」と「牛魔王」の演じ分けに注目だ。
サイド乙の初日公演も終わりに近づいている。
サイド甲とは違い、台本通りに演じることでサイド乙の圧倒的勝利が決するのか?
黒山は、今回の舞台に「新しい仕掛け」をする。
彼の新しい演出で救われる人物2人とは?
『アクタージュ』105話感想(ネタバレ)
助演、明神阿良也のカメレオン演技が発揮!
明神阿良也の演じ分けは見事なものだった。
野蛮な猿のように孫悟空を演じたか思えば、羅刹女が愛する美しい牛魔王になりきる。
あの王賀美陸も
巌ジュニアの異常な演じ分けのおかげで見えてきた。
2つの顔を使い分けていた百城の芝居の意味。
と感心する。
猿が野蛮だから悪魔千世子がむき出しになり、愛しい牛魔王が現れるからこそ美しき天使千世子の仮面が再現されるのだ。
千世子の切り替えの演技はもちろん彼女自身の成長もあるが、それは共演者の質の高い支えがあってのことだと忘れてはならない。
偉大なる舞台演出家、巌裕次郎の育てたカメレオン俳優は伊達ではない。
そして、2人の演技の振れ幅が分かりやすいからこそ、羅刹女は牛魔王への愛を怒りという感情に身を任せることで忘れようしていることが観る者に伝わる。
羅刹女が決して「ただの怒り狂った女神」でない。
「夫への愛を忘れられないでもがく1人の女性」なのだ。
観客からも共感を得る。
サイド甲では王賀美陸が「いやな牛魔王」を演じることで羅刹女に同情させた。
その演出に意外性はあったとしても、やはりサイド乙の方が流れとしては自然だ。
阿良也の「変化」の芝居は完成されている。
いや、劇団天球のみんなとの想いをつなげることで、自分は役からいつでも戻ってこられるという自信を得てから、その「トリップ感」はより真に迫るものとなってきた。
羅刹女、予想を超えた結末へ!
舞台『羅刹女』の終盤、「永遠の殺し合い」を羅刹女に提案したあと孫悟空が言う。
なぁ、羅刹女よ。
火焔山の炎を鎮めてくれ。
後生だ。
殺し合いに溺れることに救いを求めるのも悪くないと思った彼女は、彼の話に乗り、芭蕉扇を降って炎を鎮めようとする。
芭蕉扇を振りかぶったその時、予想だにしないことが起こった。
なんと、孫悟空が芭蕉扇をつかみ、振り下ろすのを止めてしまったのだ!
牛魔王への愛の気持ちが蘇った羅刹女はその場に泣き崩れ、「サイド乙」の舞台は終演となる。
とても意外な展開だ。
特に大きな問題もなく、むしろ百城の新しい「ギャップ演技」も順調に進んでいたのにも関わらず、あえてサイド甲と同じ演出がなされたのだ。
これについての黒山の意図は後ほど説明する。
ここで恐ろしいのはやはり阿良也の演技だ(繰り返すようだが)。
怒りで彼女を救えないと悟った悟空が姉を救った形になったわけだが、羅刹女が振り返った時にあったのは牛魔王の顔だった。
これは悟空が牛魔王に変身したということではない。
羅刹女の頭の中に愛しき牛魔王の顔がよぎったのだ。
これが映像ならわかる。
ドラマや映画で別のシーンを挿入することで、牛魔王との思い出を見せるはずだ。
しかし、阿良也はそれを舞台上でやってのけてしまった!
ついさっきまで野蛮でやんちゃな孫悟空だったのに、一瞬にして(しかも衣装のチェンジもなく)牛魔王に憑依したということだ。
どれほど「役に潜る」訓練を積めばこんなことができるようになるのか…。
巌ジュニア、やはりおそるべし。
黒山の新しい解釈とそこに隠された狙いとは?
もう1人恐ろしい男がいる。
演出家、黒山墨字だ。
そもそも、悟空が芭蕉扇を止めるのは、サイド甲において夜凪の役者魂放棄を止めるためのハプニングだった。
しかし、今回黒山はそれを「演出」として再現した。
惚れた男への想いが、殺し合いなんかで忘れられるかよ
怒りの感情なんかでは、牛魔王のことなど忘れられはしないと黒山は判断した。
ドキュメンタリー映画監督として、これまで様々な人間の心の機微や感情の自己防衛とその限界を目の当たりにしてきたからだと思う。
オレならそうすると思う
黒山にとっては自然な演出なのだ。
だが、その演出について役者たちに説明する時に彼は深々と頭を下げた。
頼む
彼のそんな姿は初めて見た。
演出家としての矜持をもって役者に演出の変更を求めたのなら、慇懃に頭を下げる必要はない。
そこには、「自分の都合」が含まれているということだ。
王賀美陸を自分が撮りたい映画に出演させたい。
それが「黒山の都合」だ。
サイド甲で芭蕉扇を止めた王賀美陸の芝居が「彼の暴走」と世間に認知されれば、彼はまたしても日本の演劇界から「見せしめ」を食らわなければならない。
他の芸能事務所は「あんな役者と共演させることはできない」と、黒山の計画は破綻になってしまう。
だから、王賀美陸が犯した「失敗」を「既定の演出」とするように解釈を変更した。
そう、彼は舞台上の演出のみならず、他の役者の演技に対する解釈までも変更してしまったのだ!
王賀美陸の他にもう1人救われた人物がいる。
山野上花子だ。
黒山墨字「羅刹女”は”怒り”の物語じゃねぇ。
手前のきもちを認められねぇ女が孫悟空に背中を押される。
そういう”救い”の物語だ。」
初恋を妨害してしまった過剰なまでの絵に対する愛、不倫と分かっていながら愛してしまった小説家の男(夜凪の父)。
自分が「過ち」と思っていたそれらの愛を認めるべきだと、黒山は演出を通して訴えかける。
何かを愛した自分を、愛してあげる。
自らが生み出した作品の新しい解釈によって、自分では得られなかった救いと気づきを彼女は得た。
「怒り」は様々な感情も一緒くたに濁してしまいがちだ。
しかし、無関心から怒りは生まれない。
そこに何らかの「愛」があったからこそ生まれたはずだ。
だとすれば、怒りの原点にある「愛」をもう一度見つめ直すことで、新しい一歩を踏み出すきっかけになるのかもしれない。
まとめ
今回のアクタージュの見どころは、次の3つ。
- 悟空と牛魔王の演じ分けを完璧にこなした阿良也
- 羅刹女の芭蕉扇を振り下ろさせなかったサイド乙の意外な結末
- 黒山が羅刹女にもたらした新しい解釈とそれによって救われた人たち
役者たちの活躍もさることながら、黒山の圧倒的な演出力と、自分の計画している超大作を成功させる執念があらわとなった。
サイド乙が終演を迎え、次回の『アクタージュ』も楽しみだ。
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