生々しい欲求と人間模様を描いた『娼年』の映画化が話題となったのは、皆さんの記憶にもまだ新しいのではないでしょうか。
水音が響く予告編には衝撃を受けましたが、原作となる小説があることを知った私は、そのまま映画の公開を待つのではなく、映画館からの帰り道に小説を手に取ります。
それが石田衣良に惹かれるきっかけとなりました。
性描写を含む作品については好みが分かれますが、見たままでなく読者に想像させることで脳に訴えかけてくるという点では、映像作品以上に魅力的ですし、リビドーを描くことで、焦がれる思い、歪み、やるせなさや哀しさ、そういった恋愛に伴う感情が、一層鮮やかさを増すと私は感じています。
今回取り上げる『眠れぬ真珠』も、石田衣良の魅力がしっとりと光る作品です。
あらすじ
孤高の版画家、内田咲世子(さよこ)。
「黒の咲世子」との異名を持つ45歳だ。
アーティストとして成功するという夢を叶え、逗子という地で自分に馴染んだリズムで仕事を続け、時に恋人とホテルで抱き合う。
優雅で逞しい暮らしぶりの反面、人生半ばにして独りであることへの寂寥や焦燥感が拭えない。
さらには更年期障害による幻覚が否応なしに彼女を襲う。
そんな中、彼女の行きつけのカフェに新しいウェイターが現れる。
ドリンクを運ぶ彼の、繊細で力強い手に魅せられ、作品のインスピレーションを受けた彼女は早速イメージを描き始める。
更年期障害の症状を起こして倒れてしまうが、彼女を助けたのも彼だった。
それを機に言葉を交わすようになった素樹(もとき)は、東京を一時的に離れ、時を待つ映画監督の卵。
17歳という年齢差にどこか諦めを感じながらも、彼に惹かれる気持ちは強まるばかりである。
素樹の存在は、咲世子の作品だけでなく彼女自身さえも、ふくみのあるものへ変容させていく。
眠れぬ真珠の感想(ネタバレ)
痛いほどのコンプレックス
「わたしは更年期障害なの。生きているのがほんとに嫌になってしまう。仕事も中途半端だし、恋だってできないし、こんな私が生きていて、これからなにかいいことがあるのかな。だって、私の残りの人生なんて、だらだら続くくだり坂でしょう」
「今の、この時を忘れないでね。わたしのこと、忘れないで。」
しわなどない輝くように若い男の首に頬をあわせた。いつか別れなければならない。それは咲世子にもわかっている。(中略) 素樹にはちょうどいいスタンドの明かりも咲世子には残酷だった。たるんだ腹や横に流れる乳房を見られたくない。
人生半ばにして独りであることへの寂寥や焦燥は、咲世子の心の深いところに根差しています。
しかし、素樹のリハビリに付き合う、という名目で承諾した自身のドキュメンタリー撮影が、時間をかけて凝り固まってしまった咲世子の心をほどいてゆきます。
素樹の言葉に応えながら、版画のこと、自分自身のことを時間をかけて言葉にしてゆく中で、咲世子自身も気付いていなかった境地に足を踏み入れることとなるのです。
まだ20代の私ですが、「こうして擦り切れて死んでいくのだろうか」「誰かに愛されることなんてあるんだろうか」「人にはどう映っているのだろうか」という心の呟きが漏れることはあります。
家庭を持つことなく40代を迎えたとすれば、多様な価値観という意見はさておき、咲世子のような心境になることは容易に想像がつきます。
だからこそ、今の自分を受け入れ同時に新しい作品世界を発見していく咲世子の姿は、どことなく焦りを抱える女性に、淡くも救いとなる希望を見せてくれると私は感じています。
「女はね、二種類に分かれるの。ダイヤモンドの女とパールの女。光を外側に放つタイプと内側に引き込むタイプ。幸せになるのは、男たちの誰にでも値段が分かるゴージャスなダイヤモンドの女ね。真珠のよしあしがわかる男なんて、めったにいないから」
容姿の美醜ではなく、確かな芯を持ち、内面から光を発する女性としての美しさ。
終盤、本当に終盤まで咲世子の心境は変化し続けるので「眠れぬ真珠」という題の真意が腑に落ちませんでした。
彼女は、「ダイヤモンドになれなかった女」なのでは?と。
しかし、彼女の言葉を通じてすとんと胸に落ちてくる場面があります。
もしこの作品を手に取る方がいらっしゃれば、その瞬間も楽しみに読み進めて頂きたいと思います。
湿度と疼きが伝う文章
もちろん、丁寧に「性」を描く石田衣良の魅力も随所に溢れています。
冒頭触れたように、こうした描写があってこそ咲世子の女性らしさや揺れる心がより鮮やかに届いてくるのだと私は思います。
咲世子の背中にちいさな震えが起きて、尾骶骨のほうまで一瞬におりていった。くすぐったいような、熱いようなうねりである。
不倫相手の卓治からの急な電話を受ける場面、全360頁近くあるうちのたった38頁でこの描写。
思わず「始まった」と口角が上がってしまいました。
セックスシーン以外にも、湿度や熱を感じる表現が散りばめられています。
咲世子が、歯止めが利かないほどに目も心も奪われていく様子は、読み手が驚くほど。
男の笑い声をこころよく感じるのは、咲世子にとってかなり危険なことだった。いつまでもきいていたくなるからである。素樹はやわらかな声でいった。
作中、「格好なんかつけるまえに、素直にやらしくなったほうがきっといいんだ」と素樹の言葉にもあります。
サッと目を走らせてしまわずに、随所に散りばめられた湿度と熱を愉しみながら、読み進めてみてください。
主題歌:中島みゆき/誕生
中島みゆき「誕生」
数多くの曲を生み出している中でも、幸せになれない女性の心を歌う印象が強い中島みゆき。
ましてや45歳、人生の後半に足を踏み入れんとしている女性の物語に「誕生」とはどういうことか、と思わるかもしれません。
私も、終盤に差し掛かるまでは異なる楽曲、より孤独の強いものを思い浮かべていました。
しかし読了後、私の心に残ったのは想定していた重さや苦しみではなく、上向いた感情。
「黒の咲世子」の変容を踏まえ、この楽曲を選びました。
ひとりでも私は生きられるけど でもだれかとならば人生ははるかに違う
強気で強気で生きてる人ほど些細な寂しさでつまづくものよ
孤高の女の内心に迫るような歌詞だと思いませんか。
焦燥や寂寥で擦り減った心、終わってしまった恋、素樹との関係の中で流した涙、すべてが無駄ではなく、新しい彼女を構築するパーツとなっている。
この物語にぴったりの1曲ではないでしょうか。
是非読了後、歌詞に目を通しながら聴いてみて頂けると嬉しいです。
著者:石田衣良
石田衣良 (いしだ いら)
私のお勧めは「娼年」「逝年」(三部作の最終編として「爽年」も出版されました)、短編集「ラブソファに、ひとり」です。
石田衣良の作品はミステリー/冒険ものと、恋愛ものに大きく分けれらるかなと思っていて、私は特に恋愛ものの作品を好んで読んでいます。
「眠れぬ真珠」が気に入った方は是非他の作品も手に取ってみて下さい。
「この作品が好きならこれもお勧め!」というコメントも嬉しいです…!
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