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『水やりはいつも深夜だけど』窪美澄【義母に言葉で、妻に無言で責められても、自分のどこに非があったのか、いまひとつおれにはわからなかった。】

 

あらすじ

著者の窪美澄は作品のことをこのようにツイートしていた。

『水やりはいつも深夜だけど』同じ町に住む、子どもがいる家族をテーマにした短編集。父親、母親、子どもの視点で書いています。家族というくくりのなかでいっしょに暮らしているけれど、相手の気持ちがいまひとつよくわかならない、という方に特におすすめしたいです。

セレブママとしてブログを更新しながら周囲の評価に怯える主婦。

出産を経て変貌した妻にさびしさを覚え、若い女に傾いてしまう男。

父の再婚により突然やってきた義母を受け入れきれない女子高生。

それでも不器用に歩き続ける主人公たちに救われる6つの物語が込められた短編集になっている。

注意
以下、ネタバレ注意です。

水やりはいつも深夜だけどの感想(ネタバレ)

①1番近い存在が、1番分からなかった

幼い頃、どうしても父親という存在が苦手だった。DVを受けていたわけではない。距離感が上手く掴めなかった。肉親で同性、1番近い存在なはずなのに、なぜか父だけには言わないことが多かった。

“サボテンの咆哮”の主人公、武博もそうだ。

自分自身が幼い頃、父と上手くコミュニケーションが取れなかった。親になり、今度は息子と上手く繋がれない。

章博のことは嫌いではないし、父親として愛情もある。けれど、章博が成長するうちに、おれは、どこかで、心を通わせるための小さなボタンをかけ違えてしまったんじゃないだろうか、とも思う。

父と距離感が上手く掴めないのが自分だけじゃなくて安心した、という気持ちもあったが、もっと大きく重たいものを感じた。

あの時、父は僕のことをどう思っていたのだろう。

相手が気まずそうにしているときは、何となく自分も気まずくなって、勝手に重たいムードをつくってしまう。大人になった今なら分かる。あのとき、きっと父も何となく居心地が悪かったはずだ。

僕と同じ血が流れているなら「嫌われていないか」とか「何か悪いことしたかな」とか気にしてたのかもしれない。ひどく申し訳ない気持ちになった。それでもまだ父にメールの1つも送れやしない。

いつか僕が父になったら「息子との距離感が分からない」と自分の父に相談できるだろうか。

その時、父はどんな顔をするんだろう。全く想像も出来ない。

二人三脚。

ありきたりな例えかもしれないけれど、二人三脚の例え以上に家族を例えられるものはないような気がする。

自分のペースだけじゃいけない、倒れそうになったらすかさず支える、転んだらまた走れるまで待つ。親だけが進むんじゃない。子どもだけが成長すれば良いってもんでもない。家族は、二人三脚だ。この感覚を忘れたくないと強く思った。

「お父さん、言葉は少ないけれど、お母さん、お父さんの言いたいことはわかるのよ。やさしい言葉をかけられたって、態度がそうじゃなかったら、なんだか悲しいじゃない。お父さんはね、やさしい人よ。私がそう思ってるんだからいいじゃないの」

後半に出てくるこの台詞にどれだけ救われたか分からない。心の深い部分で繋がっている夫婦をみて、僕は羨ましくなった。2人だけにしか分からない世界ってきっと有り得ないほど美しい。

探すのに何十年かかったとしても「待った?」「今きたばっかり」と笑い合える人生には、どんな綺麗な宝石も叶わない。

②愛の表し方

 出生前診断を受けること反対していた夫はそう言った。そう言われればうれしかった。けれど、妹のような子どもと暮らすしんどさをこの人は何も知らないのだ、と思った。

誰がそれを責められるだろう?普通でない子供を育てているからこそ、ごく普通の子どもが欲しいと思うのだ。

自分の娘が「普通の子どもではないのかもしれない」と疑ってしまう母の物語だ。

主人公 美幸が述べた上記の一言が、梅雨の雲のように重たくどんよりと頭に残る。

親である以上、子どもには健康に生まれてきてほしいと願うのは当たり前だ。だけどもし、出生前診断で異常が見つかってしまったら。

僕に奥さんが出来て、その奥さんが「出生前診断をしたい」と言ったら、僕はなんて声をかけてあげられるだろう。自分の不甲斐なさに嫌悪感が募る。

誰も悪くないのに、どうしてこんなに苦しい思いをしなければいけないんだろう。

この話でテーマになっているものは今この日本のどこかで、もしかしたら近所にもあるのかもしれない。目にすることができないだけですぐそこにある話だとすると、息をするのが苦しくなる。水の入ったビニール袋に入れられた金魚掬いの金魚のような気持ちだ。人生に正解はないからこそ苦しくなる。正しさを振りかざさないためには、もっと沢山の世界を、味わったことがない感情を知らなくてはいけない。

兎はすぐに妹の唾液でベタベタになったが、それもまた、妹の愛情表現なのかもしれなかった。

美幸には知的障害を持った妹がいた。

愛情表現は人それぞれだ。素直に好きと言える人もいれば、そうじゃない人もいる。怒りで伝えてしまう人だって、不安で伝えてしまう人だっている。それを痛感した一文だった。

腹を立ててしまいそうなものでも、立ち止まって考えてみるとそれは愛情表現なのかもしれない

まとめ

①溜まった洗い物

家事について、窪美澄は砂の山を交互に崩すゲームに例えていた。

砂の山は自分が1人になれる自由の時間だ。それを奪い合う。生活を継続されるために必要な家事と子育てのための手間や時間を相手に押し付け合いながら。

また別の章では妻と別れた経緯について、夫がこう述べていた。

「どちらが、どれだけ悪いか、ということを、ぼくたちははっきりさせすぎた」

これを書いている今も、うちでは台所では食器が積まれていて食器用スポンジは出番が来るのを待っている。洗濯物は干したままだし、少しでも気を抜けば部屋は散らかる。

終わってない家事の絶望感はなんだろう。

生活は残酷だな、と思う。家事は生きている限り、永遠に続く。子どもは悪意なく家事を増やす。もしかしたらパートナーがそうだという人もいるかもしれない。

ぶつけようがない怒りは行き場を失って思わぬところで爆発する。相手に悪意があろうがなかろうが、溜め込んだ鬱憤を一気に吐き出してしまう。

家族かどうかは、その時に分かるんじゃないだろうか。

ここで述べているのは血縁関係や婚約ではない部分のことだ。生活を共にしている仲間という意味での家族。

吐いたものの処理をしてくれる人はやっぱり優しい。けれど優しさだけでは処理しきれない。相手を知り、思いやり、きちんと愛情を持っていないと処理はできない。

また溜め込んだ鬱憤を吐き出せるのは相手に信頼があるからではないだろうか。見ず知らずの人に一方的感情をぶちまけることはできない。

ともすれば、意識的に、あるいは無意識かもしれない。相手を選んでいるのは確かだ。

筆者も述べていたように、吐き出すことも、もしかしたら愛情表現なのかもしれない。

②水やりは誰にでもできることじゃない

お母さんはお父さんと章博の世話をして、お父さんはお母さんと章博のために、一生懸命働いているんだものなぁ……。そんなこと、誰にでもできるようで、誰にでもできることじゃないんだ。章博のお父さんはなぁ、えらいんだぞ

どの物語も章の終わりには感情が吹き零れるような感覚になった。

熱くなった感情はもはや1人きりでは手の施しようがない。火を止めてくれる誰かがいることで、やっと吹き零れずに済む。

人を止めてくれる誰か、今回の小説ではその正体は家族だった。僕は窪美澄からは家族を教えられることが多い。

血縁関係だけじゃなく、心の深い部分で繋がっている彼らを見て、僕も誰かを支えられる存在になりたいと感じ、一見だけじゃ分からない愛情表現を理解してあげたいと思った。

水やりはいつも後回しになってしまう。日々に忙殺されながら、遅くなってもちゃんと愛情を持って水をあげられたら、それはそれで1つの形だ。水やりは誰にでも出来ることじゃない。火を止めることも、家事をこなすことも、誰にでも出来ることじゃない。

主題歌:サカナクション/僕と花

どちらとも夜、花というキーワードがピッタリハマった。

〈僕の目 ひとつあげましょう だからあなたの目をください

まだ見たことのない花 新しい季節を探してた〉

目は芽とも言い換えられる。可能性に満ち溢れている芽。それを子どもとして、代わりに目を差し出す。見張る、見つめる、見直すなど、子育ては目を使う機会が多くある。目から芽を育てる。そんな感覚でピッタリだと感じた。

新しい季節は良い言葉だなと思う。章の終わりには明るい気持ちになった。もがきながら、悩みながら、新しい季節を見つけたときの彼らの幸せを願ってやまない。

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