【僕たちがとらわれている「普通」について】村田沙耶香『コンビニ人間』(♫坂本慎太郎『まともがわからない』)

 

現代日本においてこの『コンビニ人間』という小説に関係のないという人はいないだろう。

本書にも出てくるが、縄文時代ではムラの掟を守れないものはその集団から排斥される。一方現代は「個性が認められる時代」となり、色んなタイプの人が生きやすい自由な社会を実現するために多くの人たちが努力や活動、意見の発信をしているということは論を俟たない。

だが、物事には裏の側面があって、実際のところ現代人である僕たちは実に多くの「非個性的価値観=普通」に絡め取られている。

「結婚したら幸せ」「子供がいたら幸せ」「学歴があると安心」「定職には就くべきもの」「年齢の割に〇〇」「性別の割に〇〇」etc.

そういったいくつもの「普通」が存在している。そしてその「普通」という名の「ムラの掟」を破っている者には何らかの除外処理がなされていく。

それはハッキリとした人間関係の断絶かもしれないし、シームレスな村八分かもしれない。

ただ、除外を受けない方法もある。

「自分は普通から外れているのだから、何とか頑張らなくちゃいけない」という姿勢を見せることだ。

それは、掟の中の優位者からすれば「そうかそうか、君は掟を守れていないことを自覚していてそれを劣位と認識し、それを改めようとしているのだな。感心感心。私にできることがあれば手伝うから早く『こちら側』へ来れるように頑張りたまえ」という優越感を得られるからなのだろう。

本当に「ヤバい奴」とされるのは、このような姿勢とは真逆の人だ。それは本書『コンビニ人間』において描かれている主人公のような人である。

主人公は「36歳、未婚、恋愛経験なし、コンビニで18年間アルバイト勤続の女性」という「普通ではない人」だ。

結婚をしておらず、それでいながら定職に就いているわけでもない。

しかし、彼女は普通から外れていることに特に疑問を持たず、コンビニで働くことで人生の充足感を得て満足している。

彼女は、世間の「普通」から見たら非常に不適合な存在。それをはっきりと言語化する人は登場人物の中に出て来ないが、みんな彼女に対して言外に次のようなことを告げている。

「あなたは社会的に劣位なのだから、何とかしてまともになりなさい。そうしないとあなたを仲間として迎え入れることができないじゃないの。仲間を除外するというのも心が痛むものなのよ。こっちの身も考えてみてよ」と。

主人公に同棲者を得たことを報告されて「普通に生きる彼女の友達」はこう言う。

「よかったねえええ!私、心配してたんだよ、恵子はどうなるのかなって…本当によかった!!」

それが実は「名目だけの同棲」であるという異常な事実を知った時、普通に生きる彼女の妹はこう言う。

「お姉ちゃんは、いつになったら治るの…?(省略)もう限界だよ…どうすれば普通になるの?いつまで我慢すればいいの?」

社会の設定する「普通」を守れない主人公。彼女はコンビニで働くことが最上の喜びであり、人生を生きる意味だと感じている。そのように「掟を守れないけれど、それで満足してしまっているタイプの人」は社会の排斥対象となる。

前述したように「守れていないから頑張ろう」という人は許される。でも、「守れていないけどなに?放っといて」という人は許されない。

この『コンビニ人間』という作品は後者のような生き方をする人の生きづらさを描いた作品だ。

それと同時に、「個性が認められる現代社会」においていかに社会の求めている個性が均質的なものか、喩えれば「カラフルな絵の具を使って色をたくさんつければ、デッサンの構図の歪みは目が行かないでしょう」という欺瞞を抉り出すことにも成功している。

僕がこの作品で最も心に響いた一節を紹介したい。

皆が不思議がる部分を、自分の人生から消去していく。それが治るということなのかもしれない。

この一文が『コンビニ人間』の大きなテーマの一つを表象している。

自分自身も「世の中の普通」というものに苦しまされた時期があった。自分は一体何者なのか。社会が求める普通と逸脱している自分って何なのだろうか。本当の居場所なんてないのではないか。

そんな風に苦しむと下記のような考えが起こったりもする。これは主人公がコンビニという生きる目的を失った時の心情だ。

自分が何のために栄養をとっているのかもわからなかった。

この気持ちは非常にわかる。「普通」に合わせようとして自分が本来求めている「普通じゃないこと」を臭いものに蓋をするように手離してしまった時、このような感情が生まれる。

控えめに言って二度と経験したくない。

この物語は、現代社会における目に見えない「普通圧」の強さと、それに対してどのような姿勢で接して生きるかの選択を投げかけてくる。

大体このような選択肢があるのではないだろうか。

  1. 「普通」の中で生きていくことに疑問も自覚も持たず、普通に生きる。
  2. 「普通」の中で生きていくことに自覚を持った状態で、選択的に普通に生きる。
  3. 「普通」から外れて生きているが、それは一概に悪いことなので「普通」に生きていくことを頑張る。(これは白羽タイプか)
  4. 「普通」から外れて生きていて、それ以外にも選択肢はあるが、それでも自分は「普通」に生きていくことを選び頑張る。
  5. 「普通」から外れて生きているが、そんなことは気にせず自分を貫く。

ただもう一つ考えはあると思う。というかこれが一番いいと個人的には思っている。それは

「普通って何だっけ?」と、無意識的にも思える状態

である。

ただ、みんながそう思う社会があったらそれはそれで成り立つのかわからないけれど。

畢竟、『コンビニ人間』とは「普通」が何かを読者に問いかけ、まるで眼科の診察の時にあまりに近すぎて普段意識して見ることのない自分の瞼の裏側に光を当てられるような不慣れな居心地の悪さを体験できる実に稀有な小説だということである。

僕がこの小説に「主題歌」をつけるとしたら、坂本慎太郎『まともがわからない』だ。

坂本慎太郎は「ゆらゆら帝国」というバンドのボーカリストである。

選曲理由はタイトル通りで、こんな歌詞もある。

あたまいたいできごと まともがわからない

うそみたいな人たち 悪いジョークなんだろ?

「普通の人」から見たらそうでない人は「うそみたいな人たち」であり、それはまた鏡に映したように反対の場合にも同じことが言えるのかもしれない。

最後まで読んでいただき大変嬉しく思っております。こちらもよろしくお願いいたします。

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本の主題歌を決める読書会「BGMeeting」