『壬生義士伝』浅田次郎【新選組隊士から学ぶ1人の人間としての誠実さ】

新撰組が題材の時代小説、浅田次郎著『壬生義士伝』(みぶぎしでん)。

「新撰組ブーム」という何度目かも知れない流行の波に押し上げられるようにして、形を変えながら繰り返し多くの人の目に触れてきた。

実写映画、ドラマ、舞台、コミック、考えられるほぼすべての媒体でリメイクされている点からしても、根強い人気があることはまず間違いないだろう

その魅力は一体どこにあるのか。

あらすじ

慶応4年旧暦1月7日、すでに鳥羽伏見の戦は薩長に大勢が決した夜半、1人の落武者が盛岡南部藩蔵屋敷の門前に姿をあらわす。

返り血と泥にまみれた満身創痍の男が握る刀は、鎺元(柄から伸びる刀身の根本)から折れ曲がり、激戦をくぐり抜けてきたことは想像に難くなかった。

ふと、門前にて不寝番についていた藩士が男の羽織に浅葱色(あさぎいろ)を認める。

問い詰めてみると、やはり男は文久の御世より京都市中に悪名を轟かせた新撰組の隊士であった。

 

藩士の1人が来訪の意を尋ねると、男は居住まいを整えてこう述べる。

「南部はわしの主家ゆえ――」

男の正体は過日において脱藩という大罪を犯した南部藩士、吉村貫一郎(よしむら かんいちろう)であった。

あきれたことに、貫一郎は南部への帰参を申し出ると、藩士たちの罵詈雑言の嵐にもかまわず門前にて地べたに額をこすりながら懇願しつづけた。

 

蔵屋敷差配役である大野次郎右衛門(おおの じろうえもん)の命により、奥座敷に通された貫一郎は庭先に平伏し、ふたたび帰参を願い出るも、次郎右衛門は冷淡に返す。

「何を今さら、壬生狼めが」

なおも食い下がる貫一郎に次郎右衛門がかけた最後の情けは、

「蔵屋敷の一間を貸すゆえ、其処で切腹して果てるが良い」

というものだった――。

注意
以下、ネタバレ注意です。

『壬生義士伝』の感想(ネタバレ)

「等身大の貴一郎」と「新選組隊士の貫一郎」

本作は大別して2つの視点によって描かれている。

1つは、蔵屋敷の一間にて独白にふける貫一郎だ。

自身の半生を振り返り、家族に思いを馳せる等身大の貫一郎が描かれる。

もう1つは、貫一郎を知る様々な人々の主観によって語られる「新撰組隊士、吉村貫一郎」あるいは「南部盛岡藩士、吉村貫一郎」を描いている。

 

冒頭から受ける怯懦(きょうだ)な印象は、読み進めていくにつれて徐々に異なるそれに変貌していく。

武士としての「誠の道」、人としての「真の道」とは何なのか。

1人の人間が生きる姿を多様な視点から見つめることによって、いつしかそんな物思いに駆られる作品となっている。

かつての仲間にも容赦しない剣の達人

隊士としての貫一郎は、劇中3人の人物の視点によって描かれる。

慶応元年、貫一郎とともに入隊を果たす平隊士(作中で名は語られない)

慶応3年、江戸での隊士募集に参加し、京へ上った商家出身の池田七三郎(いけだ しちさぶろう)

そして副長助勤、三番隊組長の斎藤一(さいとう はじめ)である。

 

作中では明治の年、彼らの回顧という形で語られる貫一郎の風体は、お世辞にも一介の武士とは言い難いものである。

粗末な着物、伸び切った月代(さかやき)*1、武士の魂とも言える差料(さしりょう)*2は、砥ぎ減り痩せ細った無銘の量産品。

隊内での働きもまた武士にあるまじき守銭奴ぶりで、死番(しばん)*3や切腹の介錯(かいしゃく)*4をすすんで買って出ては、渡される手当を故郷に送る。

それを揶揄し陰口を叩く者もいるというのに、本人は自身のあり方を改めようとはしなかった。

 

しかし、こと剣戟(けんげき)の腕前において貫一郎は、隊内随一といわれた沖田総司(おきた そうじ)と肩を並べる達人として描かれている。

普段の温厚な人柄から一変し、一度刃傷の場面に身を置けば、かつての仲間であっても容赦なく一刀の元に切り伏せる。

そんな貫一郎に対する一目があるが故に、彼らの口から語られる吉村貫一郎は、膨大な矛盾を抱えて生きる人間としても描かれているのだ。

*1 月代(さかやき)…江戸時代以前の日本にみられた成人男性の髪型において、前頭部から頭頂部にかけての、頭髪を剃りあげた(抜き上げた)部分(Wikipedia)。
*2 差料(さしりょう)…自分が差すための刀。
*3 死番(しばん)…新選組が4人1組で京都巡回をする際などに、先頭を立つ役割のこと。
*4 介錯(かいしゃく)…切腹に際し、本人を即死させてその負担と苦痛を軽減するため、介助者が背後から切腹人の首を刀で斬る行為(Wikipedia)。 

仁義に厚く家族への愛に溢れる理想的な父

郷里にいた頃の貫一郎はといえば、実はそこまで詳細に語られるわけではない。

南部藩組頭の子息桜庭弥之助(さくらば やのすけ)、貫一郎の息子嘉一郎(かいちろう)の友であり次郎右衛門の息子である大野千秋(おおの ちあき)、次郎右衛門の中間であった佐助(さすけ)

彼らは自分と関わりの深い嘉一郎、次郎右衛門を通して貫一郎の姿を朧気に語っていく。

 

そこから形作られていく貫一郎の像は、仁義に厚く家族への愛に溢れる理想的な父としてのそれである。

何よりも妻子の生活を安んずることを第一とするがために、貫一郎は愛する故郷を捨てる決断をしたのだと。

武士以上に「人間」として誠実に生きた

ここに至って貫一郎のすべての行動に整合が取れてくる。

貫一郎のおこないは、確かに当時、命より重いとされたであろう武士の面目に照らし合わせれば、決して誇れるものではない。

しかし1人の人間として、父として、夫としての生き方として捉えるにあたり、これほどまでに誠実に生きられる人間がどれだけいるだろう。

 

世の常識に逆らい、人としての道理を優先し実践することの難しさは誰しもが思い当たるはずだ。

人間には切っても切れぬ感情とが少なからず、いや多過ぎるほどにある。

慈愛に勝る我欲、倫理に勝る保身、無論それらは誹りを受けて然るものではある。

しかし建前を抜きにすれば、それらを徹底して排除し清廉潔白に生きられようはずはない。

程度の差はあれど、誰しも自己中心的な部分に妥協しつつ生きているのが現実である。

 

そんな自分を省みようと思い立ったとき、ぜひ本作を手に取ってみてほしい。

貫一郎の生き様を踏襲しようとまで言う心算はない。

しかし、そのあり方を知ることによって、自身の生き方に何か1つ曲げることのない「芯」を作ることが出来るのではないかと思うのだ。

まとめ

先に述べた通り、生きる上で自身の不誠実を許容することは、精神を健全に保つ上である種仕方のないことと言える。

しかし、誠実な生き方に憧憬を抱くこともまた、人生に不可欠な行為であるのも事実だ。

形を問わず、今の自身よりも高次なあり方を問い続けることも、建前としてではなく肝要である。

 

その手本として、人は多様な価値観を求め、多様な創作物の鑑賞にそれを委ねるのだろうと思う。

であるならば、その一環として私がすすめたい作品がこの『壬生義士伝』だ。

どうか一度手に取って、貫一郎のあり方を1つの価値観として受け入れてみてほしい。

この作品の本当の魅力は、それらを咀嚼し受け入れた上で読み進める2周目にも隠されている。

貫一郎の行動の原点を知った時、改めて読み直すことによって、人物の捉え方が根底から覆っている事に衷心から驚きと喜びを感じることだろう。

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