あらすじ・内容紹介
短大時代のアルバイト、たった2ヶ月のOL時代の話、さくらももこが日常的で体験した出来事を独自の目線で描いた一冊。
これを読むと日曜日の18時が更に楽しめること間違いなし。
エッセイがこんなに笑えるものだと、私はこの本で生まれて初めて知りました。
もものかんづめの感想(ネタバレ)
どうか読む場所だけは選んで欲しい。
“もものかんづめ”を読んだ人が、まだ読んでない人におススメするとき、声を大にして言いたいことは場所のことだろう。
私は電車で読んだことを深く後悔している。
その日、私はヘアセットに失敗し寝癖みたいな髪型になっていた。
その髪型で、息を切らしながら電車に乗った時点で悪目立ちしていたのに、しばらくして本を読みながら笑っていた。
堪えようと思えば思うほど、笑いは閉じた口をこじ開けようとしてくる。
ただの空気の塊であるはずの笑いが獣の如くキバを剥き出しにして襲いかかってくる。
口角は上がり、プルプルと唇が震える。
なかばお口のシェイプアップである。
場所を選ばず、公共の場で読むと笑いと戦いながら読むハメになるのだ。
あーあ。
家で読んでいたらムダな気を使わずにゲラゲラと笑えたのに。
誰もいなければケーキを包んでいるフィルムを舐めてしまうような貧乏症の私は、プライドや周囲のことを考えて押し殺してしまう感情を、もったいないと思ってしまう。
笑えるのに笑わない、泣けるのに泣かない、それは風呂の栓を閉め忘れたときのお湯はり、くらいもったいない。
快適なお風呂を楽しむためにはお風呂に栓は必要だし、この本を読むのにもだらしなく居られる空間が必要だと私は勝手に思っている。
家でポテチでもつまみながらビールを飲んで読んでいたら、何十倍も楽しめたのではないかと今更になって少しばかり後悔している。
笑いだけではない話
この本で出会える感情は笑いだけではない。
“そして結婚することになった”では娘を思う父の姿にポッと心が温まる。
ももこのことを四六時中心配する母の姿に、なんだか安心する。
親は子どもがどれだけ年を取っても親なのだ。
さくらももこが親から愛情を注がれて育ったんだなと伝わってきて、羨ましく思ってしまったのか、私は自分の親に会いたくなった。
家族愛は普遍的なテーマでありながら、形が無数にあるから面白い。
どの家庭も似ているようで似ていない。
またさくらももこがパパラッチに怒ってるシーンがあるのだが、そこが痛快だ。
言葉のナイフ(というよりも彼女が持っているのは妖刀である)でバッッッサリと切り倒す愉快さ。
それでありながら言葉のロジックに感動してしまう。
もったいないので多くは語らずにするが、この章のタイトル、”週刊誌のオナラ”はなんて秀逸な題名だろうか。
ユーモラスでありながら、風刺画のような皮肉も込められていて、このタイトルに白旗を振ってしまう。
恐怖との直面
“恐怖との直面”では、母の強さが炸裂する。
東京で一人暮らしを始めたさくらももこ。
楽しいのも束の間、露出狂と直面してしまう。
母に電話をかけると次々に撃退策を捻出。
浅はかな私は母の捻り出しアイディアに深く感銘を受けてしまった。(本来はそんな場面ではなかったのだけれど)
露出狂を撃退する名案が”男物のパンツを干してあると変質者は近づかない。”であった。
なるほどと頷いた。
同じ悩みで困っている人には是非この撃退法を教えてあげたい。
そのリーサルウェポンとして実家から送られてきたのがそう、父のパンツであった。
父の尻に敷かれ放屁に耐えてきたこのパンツ、これがいざという時の見張り番だと思うと自分の命の重さが百グラム位に思えた。
哀愁に満ちているコメントに私の唇はまたシェイプアップを始める。
スズムシ算
さくら家がスズムシを飼い始める話”スズムシ算”も印象的であった。
贅沢なことにスズムシ達は、ナスの皮を残して食べていた。私はそれを見てボーゼンとした。
“なんということだ!私はナスを炒めた時などは皮の部分が特に美味だと感じていたのに……”
スズムシにとってのゴミが、私にとってはごちそうだったのだ。
私自身、過去にスズムシを飼ったことをあるが、スズムシの食べ物に着目する発想はなかった。
たしかにナスの皮は美味しい。
けれど“スズムシにとってはゴミ”という言葉は生まれて初めて聞いたしきっとこの先も聞くことはないだろう。
人間目線でスズムシを俯瞰しているのか、スズムシ目線で人間を俯瞰しているか分からなくなりそうなくらい、柔軟な発想力に脱帽する。
このエピソードは漫画でも読んだことがあったので、父ヒロシとまる子が河原にスズムシを放つシーンを鮮明に思い出した。
漫画ちびまる子ちゃんの読者には原作の裏側が垣間見れて、それがまた面白い。
まとめ、ももこの偉大さ
さくらももこの活動は多岐に渡る。
漫画ではコジコジ、永沢君の単行本、更には”神のちから”というちびまる子ちゃんよりもディープなシュールな漫画もあり
エッセイでは初期三部作と言われる”もものかんづめ”、”さるのこしかけ”、”たいのおかしら”の他に、妊娠、出産のことを綴った”そういうふうにできている”、息子のことを綴った”さくら日和”と多くのエッセイを世に出していながら、作詞の分野でも活躍をしている。
西城秀樹や、KinKi Kids、和田アキ子、桑田佳祐、ウルフルズ、ジャニーズWEST、大原櫻子と数多くのアーティストの作詞を担当。
ほかにも詩集、絵本、ドラマの脚本、ラジオ出演、静岡市のバスのデザイン、ファイアーエンブレムのイラスト担当、静岡市のマンホールのデザイン。
掘れば掘るほど活躍している姿が現れて、私たちが見ていたさくらももこ像はほんの一部に過ぎなかったんだなと思い知らされる。
類を見ない仕事の振り幅からは、さくらももこの人柄が伺える。
誰かのことを考えられない人間は、こんなに仕事を振られることはないし、エッセイも漫画も一人きりでは成立しない。
登場人物(エッセイにおいては自分)以外に、人間が居ないと成り立たない。
それらを出版するためにも誰かを必要とする。
人と人の間で生きて、家族や読者、友人、ときには登場人物のことを思い、たくさんの人に愛されていた方だったのだなとさくらももこの存在の偉大さと尊さを想う。
と、ここで締めてしまっては湿っぽくなり過ぎて原作の雰囲気を壊してしまうので、私が驚いたエピソードを抜粋する。
ちびまる子ちゃんのお爺ちゃん、友蔵が優しくてまる子を溺愛するのは、さくらももこの憧れと理想とまる子への想い入れが入り混じって出来た架空の人格だと言う。
驚くべきことに、実際の祖父は全くロクでもない爺さんだったらしい。
ズルくてイジワルで怠け者で、嫁イビリもひどく、さくら家の女性陣は散々な目にあっていた。
そんな祖父が亡くなったとき、あまりの馬鹿面で、姉とさくらももこは大爆笑。
ひっくり返って笑う姉の姿を”死に損ないのゴキブリ”、祖父の死に顔を”ムンクの叫び”と例えている。
この章のタイトルが”メルヘン翁”なのだが、読み進むにつれてその意味が分かってきて、たまらなくなって吹き出してしまう。
巧みな表現と”我関せず”な客観的な視点に、読みながら笑いが止まらなくなってしまった。
主題歌:ゴールデンボンバー/おどるポンポコリン
こればかりはおどるポンポコリン、以外にピッタリの曲はないだろう。
作詞にはさくらももこも参加している。
この曲にもエピソードがあり、少女時代のさくらももこが家族と団欒中、植木等が歌うスーダラ節がテレビから流れ、「『ああいう歌を作りたい』……15年後その夢をすてずに作った曲」
それが今もなお愛され続けているおどるポンポコリンであった。
聴く人を「なんとかなるさ」と思わせてくれる、前向きなエネルギーに満ち溢れていて、日曜日の夜の憂鬱を吹き飛ばしてくれる。
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