どんな動物も歴史を辿ると「ルカ」と呼ばれる有機物の集合体から全てが始まっている。
サルにはまだ親近感を感じるが、ウミガメやセミも、遥か遡れば同じ祖先だということに驚かされる。
しかし、その命に限りがあるのはどんな生命も等しく同じだ。
イヌもクラゲも親友も母親も自分も、いつか必ず死ぬ。
本書はその当たり前の現実を突きつけ、他の生き物の散り方を教えてくれる。
こんな人におすすめ!
- 虫が苦手な人
- セミの生涯は短いと思っている人
- 自分の生き方について悩んでいる人
あらすじ・内容紹介
実はセミは成虫の期間が短いだけで、幼虫期は7年ほどあると言われている。
一般的に1年ほどしか生きられない昆虫のなかで、実はかなり長生きな生き物なのだ。
セミの成虫は、うだるような猛暑のなか、交尾をするためだけに大声で鳴く。
メスに自分の居場所を証明すると同時に、襲い掛かってくる天敵をも呼んでしまう。
あまりに大き過ぎるリスクを背負い、交尾を求める。
さらにセミは繁殖行動を終えると死ぬようにプログラムされている。
本書のなかには文字通り命がけで「命のバトン」を繋いでいく、生き物たちのエピソードが29篇収録されている。
時間潰しのエッセイだと思って読み始めると、彼らの必死さや健気さに胸が打たれてしまうだろう。
『生き物の死にざま』の感想・特徴(ネタバレなし)
蚊、一夏の思い出
蚊は産卵前のメスだけが血を吸う。
実は穏やかな昆虫で、ふだんは花の蜜や植物の汁を吸って暮らしている。
卵の栄養分としてたんぱく質を必要としているが、植物の汁だけではその栄養が補えない。
そのために危険を犯してまで家の中に侵入し、自分の何十倍もある巨大な生き物に近づき、いつかの我が子のために命をかけている。
個人的に最も嫌いな生き物のひとつが蚊だ。
生け捕りに成功したときには、羽をもぎ、足をもいで自由を奪った状態でゆっくりジワジワと…。
まるで海外の猟奇殺人犯のように殺したくなるほど憎い。
あの「プーン」という高音が嫌いだ。
特に寝ている時、真っ暗闇であの小さな高い音が聴こえると不快指数は格段に上がっていく。
怒りと勢いに任せ、半分寝ぼけながら、誤って自分の耳を叩き、キーンという痛みと、逃した悔しさに震える夜も少なくない。
さらにムカつくのが恩を仇で返すあの姿勢だ。
血をあげてるんだから、痒くしないでほしい。
痒みがないのなら少しくらいの血なら喜んで分けてあげるのに。
自分の中では憎むべき対象だった生き物も、読後には彼らには彼らなりの事情や言い分があることが分かってくる。
一度冷静になって、蚊の視点で考えると血を吸うという作業はとんでもなく危険だ。
まず建物に侵入しなきゃいけないし、見つかる前に済ませなきゃいけない。
”怪物”に直接、自分の体の一部を刺さなければいけない。
蚊は血を吸うのと引き換えに唾液を体内に注入している。
その唾液には麻酔成分が含まれていて、皮膚を刺した時の痛みを感じにくいようになっているのだ。
さらに血液の凝固を防ぐ効果もあるという。
この唾液を入れなければ血液は蚊のなかで固まってしまい、血を吸ったまま死んでしまう。
この唾液を私たちの体中の抗体が異物として認識し痒みを起こす。
そこまではある程度知っていたとしても、吸った後のことには初めて気付かされた。
吸う前の体重は2〜3ミリグラムだが、吸血後は5〜7ミリグラムにもなる。
重たくなった身体でフラフラと飛び、人間から一刻も早く離れ、建物から脱出を図らねばならない。
蚊の幼虫であるボウフラは水中で生活するため、水の上で産卵する。
ボウフラは水道水のようなきれいな水では育たず、餌になるプランクトンが沸いている汚い水でなければならない。
人間が普通に生活をしている空間にそんな水はあまりなく、産卵場所を探すのも実は困難だ。
バトンを繋ごうと奮闘する彼女がその後どうなるのか。
最後のページにはその記録が詩的に、かつドラマチックに記されている。
蚊目線で書かれたフィクションとはいえ、同じ経験した蚊は間違いなくこの世界に存在し、そこに出くわした人間も必ずいる。
種は違えども、ドキュメンタリー性を強く感じて戦争映画を見ているような錯覚に陥った。
読後にふと気付いたことがある。
蚊を叩いたあとで手のひらで潰れている彼女たちは、その残骸と共に赤い液体が付着している場合が多かった。
誰かの血を吸い、残す任務は産卵のみだったのだ。
リレーでバトンを受け取り懸命に駆け抜け、次の走者を目前に、後一歩というところで派手に転んでしまうシーンが脳裏に浮かぶ。
身体が重くなって動きが鈍くなっていたから仕留められたのだと、この本によって気付かされた。
タコの人生の始まりと終わり
タコは無脊椎動物のなかでは高い知能を持ち、珍しく子育てをする生物である。
他の生き物がそうしないのは、子育てをするよりも卵を少しでも多く残す方が効率的だからだ。
厳しい海の世界では親が子どもを守ろうとしても、親子もろとも食われてしまう可能性が高い。
また魚のなかには、卵や稚魚の世話をするものもいるが、その場合、ほとんどがオスだ。
その理由は明確ではないが、魚にとっては卵の数が重要なため、メスは育児よりも卵の数を増やすことにエネルギーを費やした方が効率的なためと推測されている。
しかし、タコはメスが子育てをする。
一方、オスの方は交接を終えると命が終わるようにプログラムされている。
我が子の顔も見れずに旅立った後、残されたメスがバトンを繋いでいく。
岩の隙間などに卵を産みつけ、無事に孵るまで、巣穴の中で何があっても卵を守り続ける壮絶な子育てが始まる。
その期間はマダコで1ヶ月間、さらに冷たい海に棲むミズダコは卵の発達が遅いため6ヶ月から10ヶ月にも及ぶ。
その間、メスは片時も離れずに卵を抱き続ける。
時々卵を撫でては、卵についたゴミやカビを取り除き、水を吹きかけて淀んだ水を新鮮な水に入れ替える。
こうして卵に愛情を注ぎこんでいる間、メスは一切餌を取らない。
危険な海の世界ではその間に卵が食べられてしまう可能性があるからだ。
プログラムとして組み込まれているとはいえ、その直向きさに胸が熱くなる。
母タコは餌を食べないため少しずつ体力が衰えてくるが、天敵はそんなことお構いなしで狙ってくる。
なかには産卵するために巣穴を乗っ取ろうとする他のタコだっている。
日に日に弱っていくなかで、子どもに危険が迫れば力を振り絞って立ち向い巣穴を守り続ける。
甲斐甲斐しく世話を続けた母タコにもようやく報われる時がやってくる。
それが孵化の瞬間だ。
卵に優しく水を吹きかけ、殻を破りやすいようにサポートする。
晴れて卵からタコの赤ちゃんが生まれるとき、母タコには泳ぐ力はおろか、足を動かす力すら残っていない。
子どもたちが孵化したのを見届けると、力尽きて死んでいく。
厳しい世界で子どもに無償の愛を捧げる母タコに、親とはなんたるかを教えられるような気持ちになる。
これだけのことをしているのに、子どもの成長は見届けられないのはあまりに残酷過ぎると人間目線では思ってしまうが、タコはどう感じているのだろうか。
Netflixのオリジナル作品に『オクトパスの神秘: 海の賢者は語る』というドキュメンタリーがある。
これは一匹のメスのタコにフォーカスをした映画で、2021年にアカデミー賞の長編ドキュメンタリー映画賞を受賞している。
この映画を見ると、いかにタコが高い知能を持っている動物なのかが痛感させられ、壮絶で美しく、そして愛情深いタコの生涯に最後に、思わず感涙してしまう。
本書の説得力を強めてくれる作品として、本書と併せて紹介したい。
最もありがたいハツカネズミの死にざま
英語ではネズミのことをマウスと言うが、日本では特に実験用に用いられるネズミをマウスと呼ぶ。
ネズミにはハツカネズミが用いられている。
語源は明確ではないが、一説によると妊娠期間が「二十日」であることが由来していると言われている。
妊娠期間が短く、一年のうちに5〜10回、一度につき5、6匹の子どもを産む強い繁殖力を持っており、生まれた子どもも数ヶ月で成熟し、妊娠が出来るようになる。
ヘビやフクロウ、イタチなど、自然界ではネズミの天敵は多い。
彼らに食べ尽くされぬように大量生産ができる種に進化しているのだ。
次々に生まれ、すぐさま成長し、そしてあっという間に死んでいく性質が、実験動物として適任だった。
彼らは太陽を知らない。
実験室で生まれ、実験室で生涯を終える。
薬物を投入され、電気ショックを与えられ、体中に電極をつけられる。
場合によっては生きたまま解剖されることもある。
それら全ては安全性を確認するためのもので、彼らが受けているものが安全かどうかは度外視された未知の実験が試されている。
その結果、あるものは毒で体中の毛が抜け落ち、あるものは副作用で体のあちこちが膨れ上がる。
乱暴な言い方をすれば、殺すための実験とも言える。
実験として、致死量を明らかにする必要があるからだ。
体がおかしくなっていても死ななければさらに薬が与えられ、それでも死ななければ新たな処理が行われる。
苦しみの様子は一つの記録に変わる。
死ぬこと自体が彼ら実験動物の生きざまであり、仕事なのだ。
“死にざま”に含まれるのは自然死だけではない。
死ぬことが生きている意味に直結する彼らの方が、ある意味では”死にざま”という言葉が合うのではないだろうか。
まるで言葉遊びのようだが、言い得て妙だ。
人間がより健康に、より美しく、より便利に生きていける裏には名もなきネズミたちの命があることを心に留めておきたい。
EUやインド、ニュージーランド、台湾など、化粧品の動物実験は廃止されている国も多い。
人間の細胞などを使った代替案も各国で取り入れられている。
実験動物を維持管理するための場所の確保、給餌の手間など、飼育のコストがかかるが、代替法としてコンピューターを用いることで経費も時間も圧倒的に削減できる上、人間の細胞を使うことで、動物実験よりも正確に人間に対する安全性を調べることが可能になった。
本書に載っているネズミの死にざまも、ただの歴史として教科書に掲載される日が来ること願ってやまない。
まとめ
本書後半にある3種類の動物の「死」は人間との因果を強く感じさせられる。
人間の価値観では到底考えられない生き物たちのドラマに想いを馳せていたのに、そこを起点にして「人間とはどんな生き物か」という曖昧ながらも重たいテーマに行き着いてしまう。
サケが命がけで産んだ卵を喜んで食べるし、クモやハサミムシは害虫として駆除。
卵から孵ったばかりのウミガメの赤ちゃんは、水面に映った月と勘違いして海とは逆方向の自動販売機の明かりに向かい、ペットショップで売れ残ったハムスターは”エサ”になるか、事実上殺処分される。
大きく言えば、ほ乳類のなかの一種である人間は、子どもを食べられることはないし、駆除されることもないし、人工物によって生涯が終わらせられることも、殺処分されることもない。
「人間とはなにか」の答えは本書には載っていない。
本書は、生き物の死にざまが淡々と綴られている一冊である。
彼らの最後を知り、胸が打たれると同時に、そのなかには直接的に描かれていない人間についても考えさせられるような名作だ。
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