島本理生という作家の名前を目にしたときに、浮かぶのはどんなイメージだろうか。
まず間違いなく浮かぶのが、恋愛小説の名手ということだろう。
ところがこの『ファーストラヴ』という作品は、タイトルから想像されるような恋愛をテーマにした小説ではない。
では、どんな物語なのかといえば、家族の呪縛の物語であり、愛されなかった少女の物語なのだ。
そして、女性であれば誰しもうっすらと覚えがある、「女性であることの呪い」への不快感を滲ませた作品でもある。
直木賞受賞作でもある著者渾身のこの物語に、どうか出会ってみてほしい。
こんな人におすすめ!
- 心理的なサスペンスが読みたい
- 複雑な人間ドラマを堪能したい
- 物語の世界に没頭できる作品にふれたい
あらすじ・内容紹介
ある夏の日の夕方、多摩川沿いの道を、血まみれの1人の女性が歩いていた。
彼女の名前は、聖山環菜(ひじりやま かんな)。
父親である、画家の聖山那雄人(ひじりやま なおと)を殺害したとして警察に逮捕された。
大学生である彼女は就職活動の真っ最中であり、アナウンサーの二次面接を受けたその数時間後に父親を包丁で刺したのだった。
だが彼女は、父親を刺した理由を「分からない」と語り、「理由はそちらで見つけてください」と口にする。
まるで警察を挑発しているかのような物言いや、アナウンサーを目指している女子大生が父親を刺したというショッキングな内容、さらに彼女自身の美しさもあって事件は話題を呼んだ。
この事件のノンフィクションを依頼されたのが、臨床心理士の真壁由紀(まかべ ゆき)である。
夫の我聞(がもん)、小学生の息子の正親(まさちか)と3人暮らしの由紀は、実の父親や母親に対して複雑な思いを抱いていた。
由紀の義弟にあたる庵野迦葉(あんの かしょう)は、国選弁護人として環菜の弁護を引き受けており、由紀は迦葉とともに事件の謎に立ち向かっていく。
『ファーストラヴ』の感想・特徴(ネタバレなし)
サスペンスとしての魅力
「血まみれの1人の女子大生が、夏の日の夕方に川沿いの道を歩いていく」場面が目の前に浮かぶ。
彼女が目にしている世界や、その目に宿している光はどのようなものだったのだろう。
読者の前には、細切れに事件の裏側にあった背景が語られていく。
最大の謎は、環菜が「なぜ、父親を刺したのか」という点であるのだが、この家族にはいくつも不自然な点が見受けられるのだ。
まず、被害者である父親の那雄人。
環菜の小学生のときからの友人である臼井香子(うすい きょうこ)の話によると、環菜の父親は個展などで海外へ行くことも多く、留守がちではあったものの、帰国して日本の自宅にいるとき、しばしば環菜を怒鳴ることも珍しくなかったという。
さらに驚くべきことに、父親が鍵を持たずに出かける習慣があるため、ドアを開けっ放しにしておく決まりがあったというのだ。
もし娘に何かあったらどうするのかと、眉をひそめるどころの騒ぎではない。
次に、母親である昭菜(あきな)の不穏な態度だ。
娘に対して「虚言癖がある」と言い放ち、裁判では検察側の証人に立とうとする母親。
もし娘が罪を犯したなら、ましてやその相手が自分の夫であったなら、そこに至るまでに止められなかったことを悔い、せめて生き残った娘のために「何か、できることはないだろうか」と必死で探し求め、憔悴するものではないのだろうか。
母親が娘の弁護側ではなく、検察側にまわる。
その意味と関係性を想像すると、歪つなものを感じ取らずにはいられない。
さらに、元恋人である賀川洋一(かがわ よういち)の証言と、環菜の話の食い違いがあるということも、「何が真実なのか」という疑念が生まれていく。
ひとつひとつ、事件の向こう側にあったものが、まるでベールを剥ぐように明らかになっていく。
登場人物たちの秘密や意図して隠しているものが次第に明かされていき、やがて最終章にたどり着いたとき、言葉にしつくしがたい感情が訪れるだろう。
『ファーストラヴ』という作品は、サスペンスとしての魅力はもちろんのこと、臨床心理士からのアプローチによる事件の解明という導き方だからこそ、こんな境地にたどり着けるのだろう。
なお、この作品は映画化も決定しているのだが、この張りつめた世界観をどうスクリーンで描いていくのか、それが今から待ち遠しい。
真壁由紀という女性の過去と現在
この物語を支える柱のひとつが、臨床心理士である真壁由紀の存在だ。
由紀は仕事熱心で家族思いの信頼のおける人物であるのだが、自らの父親や母親に対して、ある種の葛藤を抱えている。
そんな彼女だからこそ、上辺だけで判断するのではなく、辛抱強く環菜の話を聞くことで、さまざまな言葉を引き出せたのだと信じている。
由紀が環菜と初めて面会するシーンに、こんなやり取りがある。
「環菜さん。もし答えられたらでいいんだけど、逮捕後に警察の取り調べに対して、動機はそちらで見つけてくださいって言った覚えはある?」
と問いかけると、彼女は驚いたように首を横に振った。
「そんな、えらそうな言い方してないです」
「うん。今日あなたに会って、私もそんな言い方しないだろうと思ったので、訊いてみたの」
人に信頼してもらうためには、まずこちらが相手を信じなければ始まらない。
由紀は丁寧に環菜の話を聞き、決めつけることなく、誠実に言葉を引き出しているという印象を受けた。
続いて、こんなやり取りがある。
「良かったら、なんて言ったのか訊いてもいい?」
「動機はなんだって訊かれたときに、動機は自分でも分からないから見つけてほしいくらいですって。そういうふうには言いました」
ここで、読者は「おや」と思うだろう。
あらかじめ与えられていた、環菜という女性への印象との齟齬が生じるのだ。
この違和感は、環菜の母親や元恋人の話を聞くうちに、どんどん膨らんでいく。
由紀自身の抱える家族間の葛藤は繰り返し描かれ、自分自身も迷いながらも、真摯に周囲や仕事に打ち込む様子や公正であろうとする姿に、1人の人間として好ましいと思えてならない。
また、由紀と弁護士の庵野迦葉は大学時代からの知人なのだが、随所に2人の関係性がそれだけではないことを伺わせる描写がある。
その過去も作品のなかで触れられていくのだが、この物語にこれだけの厚みがある理由のひとつに、由紀という存在があったからに他ならない。
罪を犯す側も、それに携わる側もまた人間なのだ。
家族という名の支配と女であることの呪い
環菜の友人である臼井香子の話でわかった事実のひとつに、父親が「アトリエで教え子たちにデッサンを教える際に、環菜にデッサンのモデルをさせていた」という過去が浮かび上がる。
その話を聞いた由紀は不審に思い、香子に「絵のモデルをしていて、嫌な目に遭ったという話を聞いたことはないか」と訊ねると、香子はこう答えるのだ。
「ありますよ。通っていた美大生の一人が環菜に言い寄って、断るわけにいかなくて携帯番号教えたら、しつこくかかってくるようになったって。私が付き添って、マックで環菜が泣きながら断ってたのを覚えてます」
「そりゃあ、怖い話ですね。何歳の頃の話ですか?」
「中三だったかな。親には、おまえが気を持たせたんだから責任取って自分でなんとかしろって怒られたって落ち込んでました」
このくだりを目にしたとき、信じがたい思いがした。
十代の娘に絵のモデルをさせたことをきっかけに、まだ中学生の娘が年の離れた男からまとわりかれたことに対して、親がこんな言葉を言い放てるものだろうか。
もし、それができてしまえるような親であったなら、環菜にとって家という場所はどんなものであったのだろう。
やがて、少女時代の環菜の秘密が明かされていく。
環菜の少女時代を思うとき、そして成長してからの異性との関わり方を思うとき、怒りに震えるのは私が女だからだろうか。
まとめ
ここにあるのは家族という呪縛の物語であり、「女性である」ということの呪いであり、真っ当な愛情を注がれなかった人間の渇きそのものだ。
だが、それに呑まれて、不幸な結末へのみ滑走するかといえば、決してそんなことはない。
作品の後半で、ある登場人物が見違えるように迸るくだりがある。
それは、やるせない思いを抱えて、事件の行く末を見据えた読者にとっても、胸のすく瞬間だろう。
「女性である」ということは、それだけでひとつの呪いだ。
つねに容姿を判断基準にされ、従順で無垢であることを求められ、個人としての意見や尊厳をときに蔑ろにされ、それでいて母性や癒しを求められる。
性的な欲望や望まない視線を向けられることもあれば、被害者となった側が「そんな格好をしているから」と踏みにじられることもあとをたたない。
環菜の過去について詳細に書くことはできないが、「あなたは、悪くない」と、その肩を抱きしめであげたくなった。
傷つけたり奪い合わずに、与えあう信頼や愛情もあるのだと、叫びたくなった。
またこの物語では、家族間やそれ以外の人間関係に於て、「抑圧される」ということの生み出す悲劇についても考えさせられた。
さらに、母と娘の歪つな親子関係について思うとき、傷を負った未成熟な人間が、そのまま身体だけ成長してしまうことへの圧倒的なやるせなさに包まれた。
『ファーストラヴ』という作品について思うとき、私はある種の抑圧された息苦しさとやりきれなさ、そしていたましさを思い浮かべる。
愛を乞うために己自身を差し出すことでしか他者と関係を結べない、弱者の立場に置かれた人間の心の内にある、充たされない欠落した部分にどう向きあえばいいのか、何度でもそのことを考えさせられるのだ。
罪を償ったあとの環菜の人生に、一片の光が差し込むことを、心の底から願ってやまない。
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