もしも自分の人生がすべて決まっていたら?
生まれた瞬間から、その生き方も死に方も決まっていたら?
絶望するだろうか?それとも与えられた「生」を目一杯謳歌するだろうか?
答えの出ない「命」への問いかけ。
こんな人におすすめ!
- ノーベル文学賞に興味がある人
- 心を揺さぶられる作品が読みたい人
- 「生きること」「自分の存在意義」について考えたい人
あらすじ・内容紹介
キャシー・Hは優秀な介護人として、提供者の世話を11年も勤め、今年いっぱい勤め上げることを要請されているので、まる12年も介護人をやることになる。
キャシーが思い出すのは、自らが育った施設「ヘールシャム」のことだ。
彼女が育ったヘールシャムは、たくさんの子供たちが暮らしていた。
キャシー、ルース、トミーの3人はとりわけ仲が良く、ケンカをしたりしながらも、穏やかな日々を送っていた。
しかし、少しずつ忍び寄る「介護人」と「提供者」になる時間。
彼ら、彼女らは知っていた。
自分たちが「提供者」になることも、その世話をする「介護人」になることも。
自らに課せられた、重要な「使命」のことも。
やがて明かされるキャシーたち、ヘールシャムで育った子供たちの存在意義。
それを知りながらも、明るく生きるキャシーたち。
ノーベル文学賞作家が描きだす、悲しくも恐ろしい未来の物語。
『わたしを離さないで』の感想・特徴(ネタバレなし)
私たちは何者なのか?
「みっともない人生にしないために、自分が何者で、先に何が待っているかを知っておいてください。」
ヘールシャムの保護官ルーシー先生が言った言葉だ。
「自分たちが何者で」「先に何が待っている」か。
私たちは何者であるかを自分で決めるし、先に何が待っているかはだれも知らない。
姉であり、娘であり、父であり、母であり。
人によってたくさんの何者である。
いろんな「何者か」であるのに、この物語のキャシーたちは自分でそれを決めることができず、だれも知る由もない先(=未来)まで決められている。
夢を語ることさえも許されず、将来について考えることは「みっともない人生」とまで言われてしまう。
それはとても特殊な立場に、キャシーたちヘールシャムの生徒たちが置かれているからである。
例えば自分がどこかの国の王様の子供で、将来王位を継ぐことが決まっていたとする。
その子供は自分が「何者か」であることを自分で選択することができないが、それはとても稀な例だと思うのだ。
現代に生きる私たちにはあらゆる選択肢があって、あらゆる「何者か」になれる未来が待っている。
それがない、ヘールシャムの子供たち。
キャシーたちはいったい何に希望を持って人生を歩めばいいのだろう。
そもそも希望を持つことが間違いなのだろうか。
そう、間違っているのだ。
キャシーたちは「何者か」になるために、未来に希望を持つことは許されない。
こんな事実を突きつけられたら、だれがこの先を生きていけるだろう。
私たちはその未来が叶わないとしても、夢想はしたっていい。
「石油王と結婚したい」
「ハリウッドスターになりたい」
否定はされても、可能性がゼロではないから私たちはその夢想した未来に向かって歩いていける。
キャシーたちヘールシャムの子供たちにはその可能性はゼロなのだ。マイナスなのだ。
キャシーたちには「介護人」となり、「提供者」になることしか残されていないのだ。
ハリウッドスターを夢見ることすら、それは「みっともない人生」につながる。
ふと、今の自分が歩んでいる人生を振り返ったとき。
私はたくさんの「何者か」になり、たくさんの未来を約束されていた。
今も年齢や性別や立場で、夢や希望を制限されたりしない。
それはとてもありがたいことであり、けれどキャシーたちのことを考えると、ただひたすたに悲しいことだという事実にたどり着いてしまった。
とっくに知っている
この物語のいちばん恐ろしいセリフはこれだ。
「だから何だよ。そんなこと、とっくに知ってたじゃん」
心霊現象が起きるわけでもなければ、怪物も登場しない。
語り口もとても穏やかで、友達とケンカしたり、うわさ話をしたり、のどかな風景が描かれることが多い。
127ページで驚愕の事実が明かされたあとでも、そこからの風景もやはり荒れ狂うこともなく、激しい印象も残さない。
けれど、その「驚愕の事実」に対するキャシーたちヘールシャムの子供たちの反応が、スティーブン・キングのホラーをしのぐほど怖い。
そもそもこの本はホラーではない。
近未来のSF小説といったところだろうか。
けれど、確実に「とっくに知ってたじゃん」はホラーなセリフなのである。
キャシーたちは「介護人」になりやがて「提供者」になることを「とっくに知っている」。
それは子供の頃から刷り込まれるようにして、「とっくに知っている」状況にさせられるから。
知りたくなくとも知らされる。
知らされて、その事実を植え付けられて、理解させられる。
こんな怖いことってあるだろうか。
そして、知ることで己に課された「使命」についても学ばされる。
例えばそれを知らされずに「介護人」から「提供者」になってしまったら……。
おそらく取り乱されずにはいられないだろうし、運命を受け入れることはできないだろう。
自分たちがそういう存在だととっくに知っているキャシーたちは、特に悲しむ様子も、絶望する様子も見受けられない。
それは受け入れているかのように見えて、実は骨の髄まで「使命」を叩き込まれているからだ。
だからそれは、受け入れるのではなく、彼ら彼女らにとって当たり前のことなのだ。
私たちはたくさんのことを当たり前のものとして受け入れている。
太陽は東から昇り、西に沈むとか、川の水はやがて海にたどり着くとか。
キャシーたちもこういう当たり前のこととして、自らの使命を捉えている。
それはやっぱりもの悲しく、寂寞とした思いにさせられてしまう。
こんな世界をだれが望む
キャシーたちの住む国はイギリスだ。
けれど、描かれる世界は現代ではない。
現代では確立されていない技術が、物語の軸にもなっているからだ。
でも、この物語の世界を、いったいだれが望むのだろう。
だれが望んで、こんな世界を作るのだろう。
たくさんの科学が発達し、たくさんの技術革新がされて、住みやすくなり、医療が発展した現代では、多くの人がその恩恵を受けて生きている。
けれど、その影で多大な犠牲を払ってきたのも事実だ。
きっと犠牲なしの発展は見込めないのだろう。
その犠牲がキャシーたちとも言える。
キャシーたち自身は微塵もそんなことを思っていない。
思ってないからこその、犠牲が痛々しい。
キャシーたちはなるべくして犠牲になり、その命は当たり前のように消費される。
消費される命ってなんなんだ。
命というのは等しく扱われるべきなんじゃないのか。
消費される側のキャシーたちは、自らの命をなんとも思っていない。
使命を果たして終わる命を当たり前だと思っている。
こんな技術の発達、発展、革新を、だれが求めたんだ。
そう、叫びたくなる。
「どんなことにも犠牲はつきものなんだよ」とやっぱり言うのなら。
どうか、そのどうしようもない犠牲とやらで、涙を流す人がいませんように。
お互いを大切に思っていたキャシー、ルース、トミーたちのような犠牲者を生む未来が、どうか訪れませんように。
まとめ
読み終わった途端、やりきれない思いと、苦しさと、悲しさと、いろんな気持ちが混ざり合って、ただ涙があふれるばかりだった。
魂が揺さぶられるということは、こういうことなのだろう。
とても辛いし、とうてい受け入れることができない未来を描いた作品だけれど、私を含めた読者の心には、いつまでもキャシー、ルース、トミーが笑顔で遊んでいる。
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