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遊びのエチカ——世界を遊ぼう

風が吹いた。今書こう。この場で巻き起こることを。遠くの空から聞こえてくるうねりの響きを。

方位磁針のように、歩むべき方角を示してくれる書物は宝である。スピノザの『エチカ』がそうであったように。その音楽は踊り方を気づかせてくれる。ただ鳴るだけで導かれる様に驚きも感謝も楽しみもした。この文章はその過程の地図である。

今、私はどのような場所にいて、周りにどんなものたちがあるのか、改めて目を向け触れてみたい。概念たちであり、オーケストレーションとしての、あるいはジャズセッションとしての思想である。何が生まれるか、どう巻き起こるのか。「気流の鳴る音」をよく聴きたい。どんな建築になるのかも。

美しい鳥の声、木々の騒めき、花や草の香り。溶け合い、そこで遊ぶ。この楽しみを分け、新しい遊びに出会う。心を満たす。そのような道を辿っていこう。

明日何をしようかわくわくする、とも思わない。今日が、今がただ楽しい。時間はここにある。ともすれば導いてくれもする。次の瞬間のありさまを。時間に乗ると、空を飛べる。魔法みたいに。

そのような時間は今も/いつもあるのだ。生活に寄り添う形で、退屈を飛び越えることのできる運動。静けさと躍動のマリアージュ。この時間を、陽が昇り沈み、また昇るまでの間に配置する。

現れるのは遊びの日常である。生きることが遊びと同化していく流れがある。静的な状態としてあるのではない。常に遊びはつくられる。保ち、整え、飛び込むことで遊びになる。

ゆえに遊びの日常を創るには、努力、勇気、寛容、知恵、技術などが必要となる。平和がただそれとしてあるのではなく、努めて作られるものであるように。遊びにとって何が善いか。「遊びの倫理(エチカ)」について考える。

豆から挽いた一杯のハンドドリップコーヒーの香り。苦味と混じり独特な甘みのようになる。流れてくるモーツァルトの音色と溶け合い、文章を原稿用紙に記す至福の時間となる。

私がつくった、私のための遊びである(ただし、コーヒーは妻が淹れてくれた)。いや、コーヒーだけではない。原稿用紙もペンもモーツァルトの軽やかで優美な演奏とその再生環境も、私がつくったものではないだろう。

私は組み合わせただけだ。他の者、自然がつくり出した物と私の身体、精神を近くに並べたに過ぎない。それでいい。私を喜ばせてくれるものが今ある。最愛の人がそばにいることを楽しむように、あれはよい。物が発想が人が、自分の身体が、あればよい。

音楽とは、一瞬の音の粒の連なりがあるだけである。絵画や写真もまた、絵の具やインクの色が置いてあるだけである。これを私たちは楽しめる存在だ。喜ばしいことに。

私にとって善いものは、私の本性との組み合わせで決まるとスピノザを考えた。組み合わせを見つけよう! 今あるものから、あるいは外に広がっているものたちから。日々の見つけ直し、あるいは新しい冒険によって。考え方を変えるだけでも、いつも見ているものは表情を緩め、外から来たものとなる。

一冊の方を読む。自分と通ずる感覚がありそうでいて、自分の知らない至らぬことが書いてありそうな。少しだけ難しい本。引っかかりをつけて、滑らかに通過しないでくれる文章。知恵、思想。この体験が、あなたを新しい組み合わせに導く。既存のことが未知の声色を聞かせる。

探していくこと、という遊び。どのような組み合わせが善いのか、今日私が着て心地よい服を選ぶような。新しいゲームのルールを調整していくような。それ自体も楽しい。実は私たちは、意識するしない問わず、それをし続けたい。私が私であるために。

人が生きるのは主に日常であり、日常が豊かならば、人生の九割は豊かと言えよう。何をどのように組み合わせて日常をつくるか。これは誰しも向き合う問いではないか。土台が豊かで堅固なら、特別なことに際しても強くなろう。おそらくその逆ではない。

組み合わせを見つけていくとき、様々な方法があるだろうが、一つ言えるのは、触れてみなければ分からないということ。見たり、聞いたりしただけでなく、ライブして、身体をそこに浸してみないことには、確かめられないということ。私がそれと組み合った感覚こそが答えである。誰がなんと言おうと、その感触は私のものだ。大切な宝だ。

色々やってみる。今に納得のいっていない箇所を変えてみる。どんな小さな部分でも。あるう一点が動き、連鎖から全体がうねり出す。全体は細部に、細部は全体に宿る。五感を、皮膚感覚を、内蔵感覚を優先させると、遠くが見える。組み合わせはそうして見つけうる。

遊びとは何だろうか。何にも縛られない自由な活動のことか。しかし、ゲームにルールがあるように、やり方のわからない遊びは存在しない。すなわち何らかの制約はある。その枠のあり方は遊びそれぞれである。文化が、仕事が、子どもの戯れが実に多種多様であるように。

ならば制約がある活動が遊びなのか。退屈な単純作業は遊びか。苦しいだけの付き合いは遊びか。やりたくもない勉強や運動は。これらを遊びと私は呼ばない。では何か。労働と呼ぼう。もちろん、労働の素晴らしさ、価値、ありがたみは有る。それを善き言葉、概念として語る機会は多い。本来、働くとは人の役に立つために自分の力を使うことを指すはずであり、それは私たちに必要不可欠な営みである。

しかし、本稿においては、遊びの再定義をするように労働のそれも行う。両者ともに枠組みはあり、無法なことを基準として分かつことはできない。チェスや将棋、弁護行為、鬼ごっこ、友人との談笑や、オフィスワーク、それぞれにルールがある。明示的でない場合もあろう。談笑にだって、「相手をいたずらに傷つけてはならない」「相手からのメッセージに応答する」「突然無言で立ち去ってはならない」など、意識に上らずとも、それを犯せば談笑が成立しない「ルール」は存在している。

だから、何をしてもいいのが遊びで、するべきことが決まっているのが労働とは呼ばない。その区別は意味を為さない。では金か。その活動に対価が貨幣として支払われれば労働で、無償の活動は遊びなのか。

しかし、たとえば一流のアスリートがプレーするスポーツは労働か。観客に深い感動を与えるミュージシャンのライブは労働か。アーティストが絵を描くこと。芸人が人を笑わせることは。私はこれらを労働と呼ぶことに抵抗を憶える。確かに一般的な意味において、金を得る手段となっているこれらの活動は「労働」になるのかもしれない。しかし、彼らは楽しんでやっている。やりたくてやっている。まさに遊ぶように。であれば、これらは遊びと呼ぶに相応しい。

一方、一般的に「遊び」と言われるものでも下記はどうだろう。社交上必要だが疲れるだけの茶会、人付き合いで仕方なくする寄り道、いつの間にか毎日しなければならないものとなっているSNSのチェック、やりたいことをする時間を削ってまで離れられなくなっているゲーム。これらは確かにお金のために働いているわけではない。自分でそれをすることを、誰かに指示や命令されたわけでもなく行っている。だが、このようなことをしているとき、まさに私たちは労働している。楽しくないことをさせられている。

すると、遊びとは「やりたくてやっている楽しいこと」、労働とは「させられている楽しくないこと」を指すことになる。この定義は語感に対して腑に落ちるものだ。

先の例も分かるように、「させられている」のは他人によってだけではない。自分のやりたいわけではないことを、自分自身によってもさせられることがある。

とすればそこにあるのは「やりたいことがある自分」と「それを妨害する自分」である。二人とも私たちの中にいる。なぜ後者がいるのか。前者だけなら幸せなのに。今握っているスマホを手放して、運動したり本を読んだり何かを創ったり早く寝て明日早起きをする方が気持ちいいとわかっているのに。なぜそれを邪魔するのだ、自分よ。

もちろん脳科学的に解明されている領域はある。殊スマホについてはアンデシュ・ハンセン『スマホ脳』に詳しい。だが、スマホだけでなく、やりたいことがあり、それがなんだかわかっているのになぜかできない、というシーンはいくらでもある。天使と悪魔のせめぎ合いはこのメタファーとして名高い。

その戦い方を見つけるため、なぜ悪魔がいるのかを考えたい。悪魔、それはやりたいわけではないことをさせてくる自分の一部。本当はこんなことをするより楽しいことがあるのに、命令されるわけでもなく私はこれをする。果たして、その悪魔とやらは本当に自分なのだろうか。今、スマホを手放してもっと自分らしく楽しめることをしたいのに、まさに手が離せなくなる。スマホは、あるいはそこに含まれる数多のサイトやアプリは私たちにそこに留まることを強いているのではないか。そして私はそれに勝てないのだ。

となると、悪魔は自分ではない。それは外部に存在する。明確に敵と言える存在だ。立ち位置だ。ゆえに打ち勝たなければ負ける。反対に、本気で倒しにいってよいと許されている。「スマホを触っているのもまた自分らしさの1つだから」という言い分を採用しなくて済むということだ。もしその時間が楽しくない、張り合いもない、自分らしくないと感じているなら、むしろ誰かに迷惑をかけるでもないがゆえに、容赦なくスマホを憎み、息の根を止め、自分の身から引き剥がすべきである。なぜならそうしないと楽しくないから。そうすれば楽しくなるからである。スマホという搾取主による労働から解放され、遊びの時間を始めるために。

もちろん、スマホ全体が憎むべき対象ではなく、自分の自由を奪っていると直感されたとき、それは悪魔そのものになるということだ。だから、厳密に言えば、悪魔は常に自分の外側にいる。スピノザも、自分自身の本性に自分を破壊する要因はないと言っている。

そう、自分の中に敵はいない。自分は自分であろうと精一杯、常に努力している。風邪をひいて、咳や鼻水や発熱の症状が出るように。そのように守ろうとする運動に自分は見出される。そしてそれはごく自然に為される。精神でもそうだ。自分に自信が無く、他者から傷つけられそうな境遇で「私なんてダメだから」と心の中であるいは口に出して言うのは、さらに自分を傷つけたいのではなく、自分を守りたいのである。自分が自分でいようとするために自然にしていること、そこに自分がいる。

だから、それを壊しに来る外部要因には抗わなければならない。のだろうか?本当に?スマホの例なら、何もしていないしやりたいこともない退屈から逃げるために、自然と触っている。また、自信がなく自分を卑下することが善いとも思えない。それは守るべき自分だろうか。その「自然」を保った方が自分でいられるだろうか。

自分はどこにいるのか。スピノザは自分の本性を原因とした行動、状態を自由と定義した。一方、完全な自己原因として存在できるのは、この世界の根源でありすべてに成っている神のみとする。ということは、人は完全に自由にはなれない。比較的自由なときと、反対の強制なときがあるだけである。

守りたいのは私の自由だ。自分が自分であるという「表現感」に満たされている時間だ。スマホを手離せなくなっている時間、自分を自分で中傷している「自傷的自己愛」(齋藤環)に囚われている時間はこれに該当しないように思える。

つまり、それらは「自分を守る自然な行為」であるのだが、実はあまり守れてもいないし、自然でもないと言える。自分を十全に守れるなら、もっと清々しく、またその守り方にも「力み」が無いはずだからである。このとき、私たちは遊んでいる。遊んでいるようにしか見えないほどに楽しそうである。

真剣な表情で遊ぶこともあり得る。目の前の死にそうな人を救命するとき、看取るとき、命のかかった戦いをしているとき、応援しているスポーツチームの勝利のために声を張り上げるとき、誰も解けていない数学の難問に取り組むとき、子どもが鬼ごっこで走り回るとき、絵や音楽、小説やプロジェクトを形にしようと懸命に試行錯誤するとき、私たちは、自分を十全に表現できていると感じるなら笑みさえ浮かべ時間を楽しむことさえできる。荘子は最愛の妻の葬儀ですら楽しげに歌っていた。それは無理な笑みではなく、世の理を受け容れ、納得したことによる。自然に自分を守る行為としての遊び。

荘子も初めは嘆き悲しんだ。それもまた「自分を守る自然な行為」だった。感情を押し殺すという選択よりも、妻の死からのダメージを軽減するための涙である。この涙は、流した方が自由でいられた。しかし、その先の自由があった。元々ない人の命がこの世界に生まれ、持続し、また消えてゆくという流転を言祝ぐことだ。

勿論人の死には様々な原因がある。だからきっと、様々な命の言祝ぎ方があり、同じものは一つとしてない。遊び方は人それぞれ、その局面それぞれにある。

つまり、「自由になる」とは、その人がより自分を自然に守れるようになる、ということではないか。スマホで退屈しのぎをしたり、自分はダメだと思うことで自分を守るよりも、もっと清々しく楽しく自分を守る自然な方法があり(なぜならその時楽しくないから)、それを発見するということを指すのではないか。

反対に言えば、私たちは完全に自分を原因とした活動ができない、すなわち神になれない以上、「より自由なあり方」の天井はないので、無限の自由を追い求めなくとも、今が楽しければ、それぐらいの自由で良いのだと考えられる。神になろうとすれば、神と比較すればすべては不自由だ。他者と(過去の自分も含めた)比べれば自由は呼吸することができる。過去の自分より自由である、それぞれの生を楽しむ人々のように私もまたそれなりに自由である。自由を求めすぎるのは労働、『進撃の巨人』の主人公エレン・イェーガーの言葉を借りれば「自由の奴隷」である。今の自由の中で踊っているうちに、もう少しの自由を見つけ、実践し、この差異と反復(ジル・ドゥルーズ)の運動に乗るのが「自由の遊び」であろう。

つまり、遊びに究極の目標はない。ロジェ・カイヨワによれば、仮の目的(ネットにゴールを入れる、サイコロの出る目を当てる、違う存在を演じる、メリー・ゴー・ラウンドに乗って回る)を設定して、実人生の目的(金を稼ぐ、ご飯を食べる、子を育てる)を無化するから遊びは遊びであり楽しめる。しかし、実は人生は遊びなのではないか。

見田宗介が、ドーキンスの「利己的な遺伝子」を超える形で、人間の「テレオノミー的主体性」を看破したように、私たちは「遺伝子の奴隷」ですらない。子を生んでも生まなくとも、生存競争で確かな勝利を得ようとせずとも、生きがいは豊富にあり、人生は楽しい。

そのダンスの継続が自由の楽しさを生み出してくれる遊びではないか。スピノザ『エチカ』は人生という遊びのルールブックとして託されたのではないか。

映画『PERFECT DAYS』で役所広司の演じるトイレ清掃員平山は、まさに(実務としての)労働を味方につけ、全体として遊んでいた。ささやかで充実した日々は、彼の妹のような社会的成功を収めずとも、確かに魅力に溢れていた。

努力も運も絡みつつ、人それぞれに遊び方がある「世界」という遊び場。そこで私という乗り物に乗って遊びのルールを知って、しかしそれは現象のルールであって従わない自由も認められているため労働ではないような場所。

神に目的などないとスピノザは言う。目的とは現状の不足から導かれる概念だからだ。しかし、神(つまりは世界)に不足などなく自然はただあるだけだ。それなのに確かに世界はある。だから神は世界は労働しているのでなく遊んでいるのだ。できてしまった世界が私たちという細胞と一緒に遊んでいる。世界は本来遊びである。

 

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