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【PERFECT DAYS 考察・感想】影は重ねれば濃くなる(ネタバレあり)

役所広司主演映画『Perfect Days』を駆け込みで見てきた。寝不足だったし、静かな映画でありそうだったので、いくらか寝るのを覚悟して行ったが、結果1分たりとも寝ることはなかった。

描かれ、映されるのは公共トイレ清掃員・平山さんの毎日だ。至って普通のどこにでもいる人の毎日をただ映しているだけでもある。

どこにでもいる人の毎日というのはこういうものだよなと思う。毎日、毎週が大体同じことの繰り返しで、しかし実は全く同じことなんてなくて、仕事や家族関係、友人や行きつけの場所、趣味に関わることなどで、変化が否が応でも起こる。石川さゆり演じるバーのママのセリフで「どうして同じままでいられないのかな」というのがあったが、よくも悪くも人の生は変化していく。反復する中に差異は発生する。そのイレギュラーは私たちを緊張させたり、イライラさせたり、悲しませたり怒らせたりもする。

確固たるルーティンを確立している平山さんにとって、生活のリズムはあまり乱されたくないだろう。でも、彼はその乱れを、他者による邪魔(に思えそうなこと)を拒まない。彼は閉じた生活の中にいるようで、実は開かれている。反復も差異も愛している。いや、愛せない差異もあるだろうが、楽しめる差異は楽しみ、困った差異もしっかり受け入れて自分の中でまた毎日の喜びの日々に向かうよう努力する。するとその中で周囲も動いていく。合気道のような感じで、こちらから何か攻めていくような感じはなく、守っている中でなるべくそちらに適応する。

すると他者が自分の生活や思考を開いてくれる。石川さゆりと元夫役の三浦友和がハグしているのを偶然目撃してしまって、ヤケ酒しようと川沿いに行って、普段吸わないタバコを吸って咽せてしまうのも可愛い。彼は淡々としているが、決して心を乱さない訳ではない。一緒にシフトに入っていた清掃員の男(柄本時生)がいきなり辞める電話をよこして彼のシフトまでこなさなくならなくなってしまった時は、「こんなの毎日は無理だからね!」と管理者に電話で怒鳴っていた。平山さんは怒り、悲しみもする。他者はどうしたって変わらずにはいられない。それぞれの人生が確かにあって、彼らの生と平山さんの生はぶつかり合う。

しかし、そこに豊かなものが生まれるのだと教えてくれる。変わらない毎日を送り、ましてそれがルーティーン通りに進んでいけば確かに安心安全で充実した暮らしを得られるだろう。清掃の仕事をしっかりと成し遂げトイレをピカピカにし、昼休みは神社で木漏れ日を眺めながらご飯を食べる。幼い植物の芽を神主さんの許可を得て持ち帰りそれを育てる。行きつけのお店で一杯やってご飯を食べる。夜は古い本を読んで眠りに落ちる。夢だって毎晩見る。

この夢もまた同じような映像で表現される中で微妙に差異がある。実際の夢ってああいう感じで脳を駆け巡り、思い浮かび、情報や心を整理しているのではないか。

休みの日は写真を現像(!)して、古本屋で新しい本を調達し、銭湯だって行く。そう考えると平山さんは実にたくさんの趣味がある。カセットテープで車中音楽を聴くことも楽しみだし、朝早く近くの神社かお寺の周囲で箒を履く音で目覚め、玄関から出て陽の光を浴びる時も笑顔だ。缶コーヒーは駐車場にあるカフェオレで毎日同じの。

このようなルーティンがある中で、人との絡みが入ってくるのが楽しい。そう、変わらないルーティーンを見ることが思った以上に美しくて音楽のように心地よいリズムがあり、所作の洗練をかっこよく感じたりするという発見が前半にあり、中盤から変化が出てくるが、やはり変化もまた楽しいのである。しかし、それでも毎日は続いていく。一般的には何か非日常的な出来事が起きて、それを基軸として物語が進み、主人公の達成や大きな変化がある、というのが「面白い物語」の典型である。そういう時は「Perfect Day」もあったりするだろう。しかし、この映画作品ではあくまで平山さんの毎日が主軸にある。変わらない日々の方に焦点が当たり続け、そこに変わったことが絡んでくる。それを経験していき、彼もまた少し変わる。少しずつ変わっていく。そして時折涙を流すのだ。日々の喜びと悲しみを複雑に噛み締めながら。最後の車の正面から長く映される平山さんの表情の変遷はあまりに複雑なものであった。笑顔と悲しむ表情がどこで切り替わったか全くわからず行き来する。これが人間の複雑さなのだと気づく。動物やAIにはない人間独特の複雑さである。その表情は確かに美しく、そして自分にもまたそれはあるのだと鏡のように認識する。そう、この映画は鏡であった。私たちにもまた「Perfect Days」という複数形の日常があり、それを言祝ぐことは普通に、しかし努力をしてやっとできることなのだと教えてくれる。それが人間で、それでいいのだと描く人間讃歌の物語。そう、起承転結ではない物語。大きな構造で見たら、これは起承転結ではなく、反復である。ただし、それぞれに小さな起承転結が起こる。だから、この作品は閉じていない。実際の人生は1つの起承転結ではなく、反復を軸としたいくつもの並行した起承転結との関わり合いだからだ。

木漏れ日とは、葉通しが風に揺れ作り出す、影と日光の模様。その一回一回は全て異なるが、変わらない癒しも存在する。パターンはある。私と他者の人生の関わり合いもそのようであるなら、私たちもまた1枚1枚の葉っぱとして木漏れ日を作る仲間ではないか。そして、三浦友和に言ったように「影は重ねれば濃くなる」のだ。間違いなく、強く平山さんはそれを「力説」した。濃くならないなんてあってたまるかと。1人1人の影は確かに存在して、それが重なるとまた違う色になる。ここに人間の価値、いや価値なんてどうでもよくてただ「居る」のだと存在を認識する優しさがある。そして、影を踏み合って、確かに、あなたは、ここに、いる、んだ!と身体全身を持ってコミュニケーションする。大のおじさん2人が少年のように遊ぶ。

資本主義で成功を収めている妹は、「兄さん」を愛しつつもどうしても「トイレ清掃員」という仕事の誇りは認識できない。姪っ子が母に言われたと言っていたように「住む世界が違う」。平山さんの住むアパートを見て「こんなとこに住んでるの」とこぼしてしまうぐらい、彼女は社会の表舞台で活躍する以外の人の影を認識できない。それらは全て同じ形、同じ濃さの影であって、いくら重なろうとも木漏れ日のような繊細なグラデーションを彼女は感じることができない。おそらくそういう父の教育があった。「ぼんやりとした影にならずくっきりとした影になれるよう努力し、戦いに勝ち抜きなさい」と。そんな父と平山さんはおそらくそりが合わずほぼ絶縁状態である。現在はボケてしまって「わからなくなってきてるから、会いに行ってあげて」と妹が言った時の彼のYESと言わない沈黙は「平山さんにも色々あったのだ」と誰にでもある「折り合えない過去」をさりげなくう重厚に伝える。だが、その後に交わす兄妹の抱擁には確かに家族としての存在を認め合う葛藤という開きの可能性を妹にも感じさせる。

木漏れ日を感じ取れない母の「世界」に嫌気がさして、影を慈しむ平山さんの「世界」に逃げてきた姪は、一体どのような大人になっていくのだろうか。少なくとも、彼女は平山さんとの生活を肌で感じた。それを良いと思った身体全体の記憶がある(銭湯にも入った)。だから、もし「社会の表舞台に立つ人」になっても、世界にはただたくさんの影がそれぞれにいるのだと知っている人になるのだと思う。

ものの見事に、平山さんの周りに現れては去る(戻っていく)人たちの詳しい事情は語られない。しかし、誰しもそれぞれの人生を歩んでいるのだということが伝わってくる。皆が皆不器用に人間を生きている。葉っぱのようにありのままでいられたらどんなに楽だろうと思うような「人生」をやっている。しかし、そこにはそれぞれの「Perfect Days」を送る姿が映し出される。実はすでにPerfect Daysはあるのだと、客観的に観るとわかる。

舞踏家田中泯演じるホームレスの「踊り」は、ホームレスという「社会における究極の影」が放つ、確かな存在感を遠目から示した。まるで景色のように。それはただ真摯に「居る」だけのようにも見える。その踊りは社会の中では浮き、異形のものとして見えるかもしれない。しかし、平山さんは彼を見つけて微笑む。私たちもまたそのようであるのだから。

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