8月7日。夏休みが始まって一週間ほど経った頃、宿題に取り掛かる。真面目でも不真面目でもない、中途半端でグレーな僕にとって、『読書感想文』の5文字が毎年ラスボスだった。
自分に甘く、ちょいちょいサボり、友達と遊び、飼っていたオタマジャクシがカエルになるのを見届けているうちに日めくりカレンダーは少しずつ薄くなっていく。
読書感想文、小学生の宿題にしては難しすぎではないだろうか?
感想だけ書いたって、規定の文字数には全く届かない。言葉が全く伸びていかない。ハッシュタグが一個もない投稿くらい伸びない。なのに、あらすじは書いてはいけない。難しすぎる。
その前に本を読破しなければならない。壁が高すぎる。『高ければ高い壁の方が登った時 気持ちいいもんな』なんてミスチルの桜井さんは歌っていたけれど小学生の僕には理解出来なかった。
結局、31日の最終日に苦しみながら(時折涙を滲ませながら)無理やり終わらせていた。
「もう本なんて読まない!!」
お母さん、全然関係なかったのに八つ当たりしてごめん。
そんなことも忘れ、気がついたら高校生になっていた。本を読み始めた動機はあまりにも不純なものだった。恋心に任せて一心不乱にチャリを漕ぐ毎日。フジファブリックの”赤黄色の金木犀”をレコードだったら擦り切れるくらい聴いていた。
高校3年生の頃に好きだった菅谷ちゃんは読書家だった。僕は彼女と話したいがためだけに市川拓司さんの『いま、会いにゆきます』を読んだ。本を読んで泣いたのは生まれて初めてのことだったけれど、口下手な僕は彼女に上手く感想を伝えられなかった。
それからは本を読む習慣がついて、休み時間に読んだりもした。今でも付き合いのある数少ない友人、矢野が有川浩さんの『植物図鑑』を教えてくれた。僕は感動し、そこに載っていた”ノビルのパスタ”を作った。見事に失敗したのを覚えている。
社会人になったとき、森見登美彦さんの『夜は短し 歩けよ乙女』にどっぷりハマった。黒髪の乙女の可愛らしさ、先輩の青臭さ、本の愛しさ、そして京都の華やかさ。
全てが僕のツボというツボを押さえ、昇天させた。
居ても立っても居られなくなり、京都へ旅行へ行った。まさか先斗町を歩くことになるなんて!電気ブランや赤玉ポートワインを飲むなんて!賀茂川で等間隔に座るカップルを見れるなんて!!!
浮かれに浮かれて、映画の主題歌だったアジカンの”荒野を歩け”を聴きながらちょっと泣いた。夢みたいに楽しかった。
思い返してみると、読書というものに左右されてきた人生だった。
けれど読書自体にはメリットは残念ながらない。
読書をしていたって恋人はできないし、ご飯をふっくら炊いてくれるわけでも、脱ぎ捨てた服を洗濯機に入れてくれるわけでもない。むしろ時間もお金も持っていかれてしまう。
本を読んでるからって賢くなれるわけでもない。
手伝いをしてくれるだけだ。
あくまでも人生の補助輪みたいなもんで、それを活かせるかどうか結局は自分次第だなと、本を閉じたときに思う。
先日、インスタグラムで菅谷ちゃんが結婚することを知った。
今ではもう、どういうところが好きだったのかあんまり覚えてはいない。けれど、あの頃に好きになったものを、今でもちゃんと好きだ。
自慢できるものが少ない僕にとって、人との巡り会いだけは唯一の自慢。きっとこの先も本を読む人生になるんだろうなと思うし、多感な時期に彼女に出会えて良かったと思う。
あの頃の恋は叶わなかったけど、今は今で幸せを感じながら生きている。
今一緒に住んでいる女性も本を読む人だ。文章を書いていて付き合う前に住野よるさんの『君の膵臓をたべたい』の話で盛り上がったことを思い出した。僕の家の本棚には『君の膵臓がたべたい』が2冊ある。僕の持っていた単行本サイズのものと、彼女の文庫サイズのもの。
1冊で充分だなと思っているけれど、その光景が可笑しくてどこか可愛らしくてそのまんまにしてある。
こういう出逢い方があると、読書はいつどこで役に立つのかわからないなと痛感する。
一生立たないかもしれないし、思わぬところで役立つのかもしれない。
マリオカートの緑コウラみたいだ。緑コウラを持っていれば、誰かに攻撃されても身を守れるし、自分や大切な人が苦しんでいるときに起死回生の攻撃を放てるかもしれない。どう使うかはやっぱり自分次第だけど。持っていて損はないなと思う。
僕は”シミのついた紙の塊“がやっぱり好きだ。持ち運ぶには重たいし、部屋の置き場にも困る。火がついてしまえば、我が家は他の家よりも良く燃えるだろう。
『大事なことって、たいてい面倒くさい。』
宮崎駿さんの言葉をいつも胸ポケットにしまって生きている。
過去の思い出も、今の生活も、読書も、たいてい面倒くさい。
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ishidaさんの思い出のシミや手垢がついている「読書」の文章、素敵です。
確かに読書ってめんどくさい。誘惑に負ければ本を開かずにスマホをだらだら眺めてしまったりもする。ビジネス書はいざ知らず、小説に関してはもはやわかりやすいメリットもない。
それでも、僕たちは読書をやめることはできない。
読書をすることは、偉いことでも真面目なことでもなく、それでいてめんどくさい。存在理由もよくわからない文化が、洞窟の中でストーリーを語る語り部に人々が群がった時代からずっと引き継がれている。
そう考えると、もしかしたら僕ら人間にとって、読書というのは昔からの悪友みたいな存在なのかもしれませんね。
現代ではいよいよ「電子書籍」という新しい媒体が登場しました。もちろんその革新によって、書籍の売上が伸びていき、読書という文化が豊かになるのならそれは喜ばしいことです。
でも、僕個人としてはやはり「紙」が好きです。非効率的で鞄の中や本棚の場所もとるのに、どうして好きなのかはっきりと説明することができなかった。
もちろん、脳科学とか心理学とか用いればサイエンス的な説明は可能なのかもしれない。
でも、僕としてはこの一節に答えと光を見たような気がしました。
>僕は”シミのついた紙の塊“がやっぱり好きだ。持ち運ぶには重たいし、部屋の置き場にも困る。火がついてしまえば、我が家は他の家よりも良く燃えるだろう。
本当に便利なものに愛着は湧かない。めんどくさくて、不完全なものこそ人は愛する。
「紙の本」の愛らしさ、僕も好きです。