「宿命」という言葉がある。
意味は「前世から決まっている運命」だ。
人間は、少なからずその宿命に付きまとわれることがある。
運命は変えられる一方、宿命を背負うと途端に人は無力になってしまう。
だが、たとえ抗うことはできなくとも、受け入れることはできる。
これは、己の宿命を受け入れた人間たちの物語。
こんな人におすすめ!
- 人間の残酷な部分を覗き見たい人
- 怖いもの見たさがやめられない人
- 最後の最後には希望を見出したい人
あらすじ・内容紹介
ときは明治。
編集人の幾次郎(いくじろう)は、大人気狂言作者・河竹黙阿弥(かわたけ もくあみ)に台本を書いてもらうため彼の元に通っていたが、あまりにも通い詰めたせいで機嫌を損ねられてしまう。
どうしても台本を書いてほしがる幾次郎に黙阿弥は、「そんなに書いて欲しけりゃネタを探してこい」と言い放つ。
困り果てた幾次郎が頼ったのが、古本屋の清兵衛(せいべえ)だった。
協力をしてくれると言った清兵衛が出してくれたのは、5つの戯作。
親子のどうしようもないすれ違いを描いた「だらだら祭りの頃に」
どんな仕打ちを受けても幸せだと言う女の真意ははたして……「雲州下屋敷の幽霊」
夫に毒を盛った罪で投獄された女の協力者が口を割らない理由は?「女の顔」
人斬りが次に依頼された男の動作の隙を見つけるが……「落合宿の仇討」
男が見世物小屋で女の身の上話を聞きたがるわけとは「夢の浮橋」
5つの戯作を読まされた幾次郎は、清兵衛の意図を胸に黙阿弥のもとを再訪する。
清兵衛が幾次郎に5つの戯作を読ませた理由は?
そして、黙阿弥は台本を書いてくれるのか。
さてさて、寄ってらっしゃい見てらっしゃい。
世にも奇妙で、残酷な人間喜劇の始まりだよ。
『奇説無惨絵条々』の感想・特徴(ネタバレなし)
断ち切れない縁(えにし)
その人は、私が部屋に入ると読んでいた本を机に置いた。
そして「あぁ、よく来たね」と笑顔で迎え入れてくれた。
私はどうしてここへ来たのかよくわからないのだけど、その人は「君もあの本を読んだんだろう?」と言ってきた。
あの本とは谷津矢車の『奇説無惨絵条々』のことだ。
頷く私に、「むごい物語の連発だろう」と言い放つ。
たしかにむごい物語ばかりだった。
人間という生き物の残酷さをこれでもかと見せつけられて、私は読んだあと少々放心気味だった。
例えば、1番始めの「だらだら祭りの頃に」なんて悲惨すぎる親子のすれ違いの究極を読んだ気がした。
「君はお父さんのことが好きかい?」
その人は何気なく訊いてきたけれど、完全にこの物語のことを言っているのだろう。
だって「だらだら祭りの頃に」は父と娘の話なんだから。
好きでも嫌いでもない。
ただ……。
「ただ?」
この物語は……。
「悲惨すぎる?」
そう、悲惨すぎるのだ。
主人公にここまでの仕打ちをしておいて、「こんなことある!?」という感じだ。
「甘えるなよ」と作者の谷津矢車さんは読者をどん底まで突き落とす。
例えて言うなら、辛いものを食べていて最後まで飲み物を飲めないで食べ続けなきゃいけないという試練のようだ。
私は娘だからか、父親という存在がそこまで特別ではない。
というのも、私の父は「何も言わない」というのが定評の人物だからだ。
何でも言うことは聞いてくれるし、行きたい場所には連れて行ってくれる。
でも、娘が人生の岐路(例えば高校受験とか)に立っても何のアドバイスしてくれなければ、「頑張れ」の一言もない。
そういう人なのだ。
この物語の父親と似ているところがあるとすれば、お酒にだらしないところぐらいだ。
(そのお酒に対するだらしなさも私が激怒して治った)。
時代が時代なだけに、情け容赦なく娘の人生を親が決めるというこの物語は、足掻いても足掻いても変えることのできない運命に導いた父親を、娘は呪えばいいと思った。
私だったら、この父親を許すことは決してできない。
「君はこの父親が許せないんだろう?」
私の心を見透かしたようにその人は言う。
「でもさ、ここを読んでごらんよ」
該当のページをその人は私の前に広げた。
「ここを読むとさ、ちょっとは救いがないかい?」
そのページはラストへ向かう、ほんの少し前。
娘と父親が2度目の邂逅をしたシーンだった。
私は喉から「ぐっ」と言葉にならない声が出た。
だってこのシーンを読んで、涙ぐんでしまったからだ。
どんなことがあっても、親子の縁を断ち切ることはできない。
血を分けた親と子。
憎み、恨み、呪っても、手を取り合うことは叶わなくなってしまっても、この人が私の親で、この人が私を育て、幸せが一時だったとしても、その幸せだった記憶が、思い出が、辛いことを凌駕してしまうからだ。
でも……。
「娘は父親にもう1度会いに行くべきではなかったって言うでしょ?」
そうだ。
娘は父親との2回目の邂逅をしなければ、私が思っていたもう少し「救い」がある物語だと思うのだ。
それなのに、娘は会いに行ってしまった。
なぜ、なぜなんだ。
「それが親子ってもんでしょ」
その人はにっこりと、ある1行を指して言った。
「でもね、あの日のことを思い出すと、心の芯に春の日が差すような心地がするよ」
あぁ、さっき私は思ったじゃないか。
どんなに辛くても、その辛さが幸せな記憶や思い出を凌駕することはないって。
娘にもまだあったんだ。
どんなにひどい仕打ちを受けても、どんなにむごい運命に翻弄されたとしても、親子として暮らしていた「幸せな思い出と記憶」が胸にあったんだ。
「次にいこうか」
生きていれば幸せ?
「君は何をしているときが、幸せって思う?」
突然の質問だ。
私は白米が大好きだから、炊きたてのごはんを食べたときとか……。
あとは、「あぁ、面白かった!」って思える本を読んだときかな。
「うん、まともな回答だね」
当たり前だ。
私は平凡な人間だし、何事も平均でいたいと思う節がある。
「何が言いたいか分かる?」
分かる。
完全に「雲州下屋敷の幽霊」のことだ。
どんな仕打ちを受けても「幸せ」と言う女の話。
「そうそう。その女は飢饉で家族を失ったり、他にもひどい目に遭ったから、生きているだけで幸せって言うんだよね」
女を買い取った大殿様は、女を絶望に落としたくていろんなひどい仕打ちをするんだ。
でも女は絶対に絶望しない。
「生きてるだけで幸せ」と言い続ける。
真意は別にしても、ちょっと私は怖かった。
「そうだよね。怖いよね。でも、生きてるだけで幸せって、それこそ本当に幸せなことじゃない?」
なんでよ。
人間、生きてるだけじゃダメでしょ。
ご飯がおいしいとか、テレビが面白いとか、いろんなことを感じて「あぁ、生きてる!」って思ってこそ幸せでしょ。
「でもそれは、君がいろんなことを知っているからでしょ?」
どういう意味だ。
「君はご飯がおいしいって知ってるし、テレビが面白いって知っているから、それを含めたことで幸せを感じてしまっているんだ」
つまり、私は生きていること自体以外で幸せを感じる方法を知ってしまっているから、この女のように「生きているだけで幸せ」ということにならない、ということか。
「この女はね、究極なんだよ」
たしかに。
私は様々な要素を「生きる」ということに加えて、「生きてるって幸せだな」と思っている。
でもそれって、「生きてるだけ」を幸せだと思っていることにはならない。
女の「生きてるだけで幸せ」は究極の究極だ。
「だからさ、この物語にも救いはあるわけ」
生きることしか幸せを知らない女。
たしかに……。
たしかに幸せだ。
だって、それって、明日が来ることだけで幸せってことだから。
「さあ、最後に行こうか」
最後はとびきりの希望を
「もう、物語はおしまいさ」
どういう意味?
「この戯作を読まされた幾次郎の話しさ」
あぁ、忘れてた。
こんなむごい物語を5作も読まされたのに、最後の最後は「救い」を持っていった、ちゃっかりさんか。
「そう。こんなにも非道で、悲惨で、ひどくて、むごい物語ばかり並ぶ物語は、すべてラストのかつて絵描きだった幾次郎の救いに繋がるんだよ」
私はこのラストにちょっと腹が立った。
サラッといいところ持っていくなんて、名探偵かよ。
「それでいいんだ。このラストがあるから、5つの戯作に救いの光が差すんだよ」
そうかもしれない。
いいところをすべて持っていった幾次郎だけど、私は「よかったね」と思ったからだ。
まとめ
その人は「またおいで」と言って私を送り出した。
消化不良だったこの本が、私の中で「救い」の物語として納得できた。
最初はこんなにも悲しいと思っていた気持ちは、宿命を受け入れて生きた人たちへの尊敬に変わった。
そっか。
谷津さんはちゃんと読者に寄り添ってくれていたんだ。
私は晴れやかな気持ちで、もう一度本を開いた。
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