「クリスマスにはいいことが待っている。」
そう考えている方は、きっと多いことでしょう。
今回ご紹介する小説は、他の作品とは違い、かなり現実寄りです。
一味違ったクリスマスを楽しみたい方へ贈る、私なりのプレゼントです。
前置きが長くなりました。
今回ご紹介する小説は、辻仁成さんの「ミラクル」です。
国語の教科書にも掲載されたことのある、少しほろ苦い、大人のための絵本です。
読み終えたら是非、もう一度冒頭を読み返してみてください。
辻さんが伝えたかったほんとうの意味が見えてきます。
あらすじ・内容紹介
物語は僕(辻さん)が、ある男と出会った話から始まります。
まるで「星の王子さま」を思い起こさせるような、ガラスの破片さながら、胸に刺さる語り口です。
「子供の頃はあったのに、大人になるとなくなってしまうものがたくさんある。
それらを幾つ無くしたかで、人はどれだけ大人になれたかを計るようだ。」
クリスマスを三日ほど過ぎた夜、辻さんは学生時代の仲間たちと飲み歩いていたのですが、あいにく、その日は大雪が降っていました。
交差点の赤信号に見とれているうちに、彼は迷子になってしまったのです。
このままいくと、元の世界に帰れないかもしれない。
焦った辻さんは、身体を温めるためにバーへ入ります。
そこで出会ったのが、アルでした。
大柄な体格で、カウンター脇の、古ぼけた小型のアップライトピアノにまっすぐに向き合い、クラシックとも、ジャズとも言えない不思議な旋律を奏でる彼。
思わず引き込まれた辻さんは、彼の演奏をこう評価します。
その演奏はといえば、どうしてこんな場末でのバーでなんか弾いているんだろうと首を傾げたくなるほどの素晴らしいものだった。
煙草の煙と下品な笑い声との間をぬうように流れるピアノの静かな音色は、岩清水のせせらぎのようでもあり、また夕刻の鳥のさえずりを連想させた。
また、彼はこのような、不可解な行動を取っていました。
そして彼にしても最初から酔った客たちに聞かせるつもりはないのか、その視線は誰もいない壁側を向いていたのである。
まるで彼にしか見えない者たちへ向けて弾いているようであったし、実際彼は、曲が終わるたびに壁に向かって会釈などしていたのだから、
やはり彼にしか見えない幽霊の観客たちはいたのかもしれない。
演奏が終わり、辻さんは彼に「良かったよ」と話しかけます。
アルは優しそうな笑みを浮かべ、そして一言、ありがとうとお礼を言うのです。
辻さんとアルは打ち解けあい、ビールを飲みながら談笑します。
そこで、辻さんは先ほどの疑問を彼に投げかけます。
「どうして、壁の方を向いて演奏していたんだい?」
アルはその問いに対して、じっと考え込んだまま、なかなか口を開こうとはしませんでした。
それでも辻さんはじっと待ち続けると、やがて彼が重い口を開いてこういったのです。
「君は僕の話を信じるかい」
辻さんはもちろん答えます。
「信じることは昔から得意なんだ」と。
アルはうんうん、と頷きながら「まだ誰にも話したことはないんだけど」と前置きを言ってから、ぽつりぽつりと生い立ちを話しました。
それが今回の小説、ミラクルです。
この不思議なピアノ弾きの男、アルが今回の小説の主人公です。
ミラクルの感想(ネタバレ)
飲んだくれの父親の「嘘」
北の街の寂れた一室で暮らす、シドという男。
彼はアルの父親なのですが、妻を失ったショックを受け止められずに、お酒に逃げてばかりいます。
第一、シドはいつまでも妻のことを死んだと認めることができなかった。
それがあまりに当然の死だったせいもあるが、頭の中では彼女の死を理解しているつもりなのに、心ではいつまでも認識できなかった。
アルの母親は、アルを生んですぐに亡くなってしまったのです。
そのことを、まだ幼いアルは知るよしもありません。
ふがいなくなったシドは、アルに大嘘をついてしまうのです。
「そうじゃない、ママは生きているよ」
「ママはね、世界中の街を旅して歌うシンガーなんだ。だから忙しいんだよ。昨日も今日も明日も世界中を飛びまわっているんだからね」
「じゃあ、ママはいつか戻ってくるんだね」
「いつ?ねえ、いつ戻ってくるの?」
苦し紛れにシドはこう言い放ちます。
「雪が降る日だよ」
アルが本当のことに気付かないように、シドは雪の降らない南の方へ、南の方へ街を転々とします。
これもすべて、アルの為に行う、シドなりの愛情なのです。
コミカルな二人の幽霊
シドに大嘘を付かれたとも知らず、アルは母親を探す日々を送っています。
街を後にする道中も、彼は母親の影を探しているのです。
そんなある日のこと、アルはいつも、自分の見る世界の中に、二人の燕尾服を着た初老の男がいるのに気づきます。
「あ、またいる」。
アルはシドに彼らのことを伝えようとしますが、言おうとした瞬間に彼らの姿は見当たらなくなってしまうのです。
それが何度も繰り返されたため、アルはシドに彼らのことを伝えようとはしなくなります。
すると、今度はあの奇妙な二人組の方から、アルにサインを送ってくるようになったのです。
彼らはアルに向かって手を振ったり、微笑みかけてきたりしますが、アルは用心深いので、彼らのことを警戒して、それに乗ろうとはしません。
そうやって、何度も何度も奇妙な二人組との交信が続いたある日のことでした。
シドがアルをスーツケースの見張り番としてその場を後にした時のことです。
不意に彼らは、アルの目の前に現れました。
「やあ、アル御機嫌よう」
背が高い方の紳士が、やや高めの、人のよさそうな声でこう言いました。
「御機嫌よう」
今度は小太りの方の紳士がアルに挨拶をしました。不機嫌そうな、低い声です。
釣られてアルも返します。
「ごきげんよう」
「まず自己紹介といこうか。私の名前はダダ・ジョナサンだ。これからはダダと呼んでおくれ」と、背の高い方が言うと、
「ふん。しょうがあるまい。私はアントニオ・エラソーニと申す。エラソーニと呼びたければ呼んでも構わん」と、小太りの方が自己紹介しました。
アルはゆっくりと、彼らの名前を反芻します。
「ダダ・ジョナサンとアントニオ・エラソーニ…。」
唐突に、ダダが自身の存在を明かします。
「私たちは幽霊なのだよ」
エラソーニもそれに続きます。
「驚くがよい、私たちは幽霊なんだ」と。
アルは驚き、まじまじと彼らを見つめ返します。
「おじさんたち、本物の幽霊なの?」
二人はうれしそうに頷きます。
そして、アルにこう問いかけます。
「私たちのことが、こわいかね?」
アルは言います。
「ううん、こわくないよ」
「こわくない」ということに「強い子だ」と、歯を見せて微笑んだエラソーニ。
「いいかね、私たちは君にしか見えないんだ」と自慢するように、上から目線で答えます。
またまたびっくりしたアル。
ダダとエラソーニを交互に見比べながら、「おじさんたち、僕にしか見えないの?」と声を張り上げます。
「ああ、そうさ君にしか見えないんだ」とダダ。
「私たちは君にしか見えない幽霊なんだよ」とエラソーニ。
確かに、彼らをよく見ると、なんだか体が透けているようにも見えます。
「でもどうして、僕にしか見えないの?」とアルは疑問をぶつけます。
すると、彼らは同時に微笑むのです。
「私たちは君と友達になりたいんだ」とダダが言うと、「見えなきゃ、友達になれないからさ」とエラソーニが答えます。
アルは、ダダとエラソーニがすぐ後ろに憑いていることも知らないシドに、こう言うのです。
「ねえ、パパ。パパには見えて僕には見えないものってあるのかな」と。
シドは「さあ、いいからアル、急がないと汽車に乗りおくれるぞ」と相手にしません。
アルの冒険
アルは、同い年の子供たちと比べると、ずっと大人びていました。
物心がつきはじめた頃には、すでに何でも自分でやらなければならないことも感づいていたのですね。
シドはアルのことを一人前の大人として扱いました。
そのせいで、アルは他の子供たちのように甘えたり駄々をこねたりせず、欲しいものがあっても、自分から買ってくれとせがむことはなかったのです。
そんな彼はある日、パン屋のおつかいの途中、ベンチに座っている親子連れを目にします。
ちょうどアルの前方のベンチには、親子連れが座っていた。
アルの視線はすぐに彼らに止まった。
ベンチの端から順に父親、それにアルと同年代の男の子と女の子、
そして例の母親らしき存在。
仲睦まじく、サンドウィッチをつまみながら、語り合い笑いあう四人。
アルはパンを買うこともすっかり忘れて、長い間彼らを見まもった。
アルはそこで、不可解な行動を目にします。
母親らしき人が、女の子のケチャップまみれの口をぬぐっているのです。
女の子の口が綺麗になったら、今度は男の子の口もぬぐいます。
二人とも、されるのが当たり前であるかのように、口を突き出しているのです。
アルは彼らを観察すればするほど、どうしてあのようなことをするのだろうと疑問に思います。
そして、自分も同じようにされたいと思い立った彼は、勇気を出して彼らに話しかけるのです。
「あら、どうしたのかしらこの子」
最初に気付いたのは、母親です。
「迷子かな」
父親も後を続けます。
「ぼく、どうしたの。お母さんとはぐれたの?」
アルは首を左右に振ります。
「いないよ、そんな人」
「やっぱり、迷子じゃないのか」
父親は心配しています。
「お父さんは?じゃあお父さんと一緒だったのね」
母親は答えますが、アルは首を振って答えます。
「ママはいないけどパパはうちで寝てるよ。僕はパパのためにパンを買いに来たんだ。パンを買うのは僕の仕事なんだ」
それを聞いた女の子が言います。
「ママ、この子のお母さんはいないの?」
男の子も繰り返します。
「いないの?」
母親は子供たちを黙らせようとします。
それを聞いて、アルが最後にこう言い放つのです。
「聞いても良いですか?」
「おばさんは僕のママじゃないですよね」
何度読んでも胸が締め付けられるシーンです。
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一番最初の記憶って何だ?と聞かれたときに、アルは答えられませんよね。現実にふりまわされて、感動したことを忘れてしまうからだ、と、ダダとエラソーニが説明してくれます。
アルがお母さんがいないという現実にふりまわされなくなったときに、感動したこと、一番最初の記憶を思い出したのでしょう。
お母さんに抱きしめられた、感動、あたたかさ、安心感、これがアルの一番最初の記憶のはずです。
アルが現実にふりまわされるのでなく、一番最初の記憶と感動にたどりついたからこそ、お母さんに会ったんだという話ができたんだと思います。単なるウソではありません。喜びと感動がありますよね。
お母さんは死んでいますから、お母さんがさっきここに来たんだというアルの話は、ウソです。ですけど、アルの心の中にお母さんが訪ねてきてくれて、一番最初の記憶と感動と喜びを残していってくれたんですね。
だからアルがお父さんに不平不満を言うのでなく、逆にお父さんを思いやることができたということですよね。アルの心の中に起こったことは、本当にスゴイ奇跡ですよね。死んでしまったお母さんが生き返ったというレベルの奇跡です。それがクリスマスイブに起こったんですね。
本当にステキな話だと思います。
じんさん、非常にコメントが遅くなって申し訳ありません。
一番最初の記憶は、アルじゃなくても答えることが難しいと思いますね。胎内での記憶が残っていない限り。アルはただ、忘れていたのではなく、「思い出せない」だけなのだと思いますが。
ダダとエラソーニは、私たちが忘れかけていた「子どもの心」を思い起こさせてくれる存在なのでしょう。星の王子さまの王子さましかり。
そうですね、アルはアル自身の成長によって、「お母さん」の幻影を断ち切ることができたのだと思います。心の中で起こった出来事は、幻でもなんでもなくて、ちゃんとした事実です。
現実を最後に受け入れることができたアルと違って、シドは現実から逃避してますね。彼の現在は語られませんが、想像はなんとなくついています。
最後の最後にアルが成長できて、ちゃんとお母さんの幻影に縛られることなく別れることもできて、本当に良かったです。
一番大切な記憶を思い出すことができた。それだけでアルは幸せ者じゃないのでしょうか。
一通り読み返して、最初のアルの紹介に辿り着いたときは涙で前が見えませんでした。