『彼女が好きなのはホモであって僕ではない』のあらすじ・内容紹介
主人公である男子高校生の安藤純は、同性愛者であることを周囲の誰にも言えず、鬱屈とした辛い日々を過ごしていた。
そんな時、ひょんなことから、同級生の三浦紗枝が同性愛者の男子同士の恋愛フィクションを好む腐女子であることを知り友達になる。
そして、三浦紗枝は、安藤純が同性愛者とは知らずに彼のことを好きになる。
彼は本当のことを隠したまま彼女の告白を受け入れる。
ふたりは自然と学校の友人たちにも公認のカップルとして付き合うことになる。
だが、彼は次第に自分にも彼女にも嘘をつき続けることができなくなり、ふたりの間には徐々に不穏な暗い陰りがさし始める。
一方で、ある出来事をきっかけにして、彼らの関係は思わぬ方向へと次々に急展開を迎える。
誰かを好きであるということ、普通であること、人と違うこと、何より本当の自分自身であることに苦しみながら、彼は自分を取り巻く様々な人々との関わりを通じて答えを見いだそうと必死に奮闘し、やがてある結論へと辿り着く。
読書ノート
この小説を紹介してくれたのは、読書アカウントのTwitter上で知り合ったある友達だ。
友人
私
数日後、そんなTwitterでのやり取りを思い出しながら、私はイオンモールにある本屋さんに立ち寄り、壁一面を覆う天井高くまである本棚を見上げて途方に暮れていた。
普段なら、だいたいどんな作者の作品がどこにあるかだいたい把握していたが、その時は見当もつかず本棚の前をウロウロしていた。
すると、意外にも入口付近の新刊コーナーに平積みになっているのを見つけた。
もっとマイナーな本だと勝手に思い込んでいたので、正直少し拍子抜けした。こんなに目立つところにあったのか。
ところが、である。
目立つ場所にあるためか、その周りに何人かのお客さんたちが立ち止まって本を選んでいた。
その時、私は早くいなくなってくれと内心思っていた。
はっきり言おう。
タイトルがあまりにもストレート過ぎて、この小説を手に取ることを躊躇していたのだ。
皮肉にもまるで登場人物の腐女子、三浦さんが安藤純くんと出会った日にこっそりとBL本を買ったときのように。
今まで本を買うときに、こんなふうに人目を気にすることなんて一度もなかった。
だけど、この時にイオンモールの書店で不意に覚えた、一瞬のためらいの感情にこそ、絶対に私たちが見落としてはならない大切なメッセージが潜んでいるのではないだろうか。
彼女が好きなのはホモであって僕ではないの感想(ネタバレ)
同性愛者、という言葉は異性愛者と対峙しているようでいて、していない。
なぜなら、異性愛者は自らをわざわざそう定義しないからだ。
多数派の無意識が生んだ便宜上の反意語、それが同性愛者という不自然なタームだ。
そう一方的に言わされるのは少数派だけなのだから。
そして、このようなタームによる二極分化は、私たちを思考停止へと導く。
『同性愛なんてありとあらゆる生物に発現しうる、取るに足らない自然現象。真に恐れるべきは、人間を簡単にする肩書がひとつ増えることだ。(略)人間は、自分が理解出来るように世界を簡単にしてしまうものなのさ。そして分かったことにする。だけど本当のことなんて、誰にも分からない。』『物理の「ただし摩擦はゼロとする」みたいな?』『そう。「空気抵抗は無視する」もだね。ジュンはいいセンスをしているよ』(略)『摩擦がゼロなわけはない。空気抵抗を無視して良いわけがない。だけどそうしないと理解が出来ないから、世界を簡単にして事象を読み解こうとする。(略)
これは純くんとSNS上でつながっている友人とのチャットによる何気ない会話のやりとりだが、作品前半に出てくるこの引用部分に、じつは純くんと三浦さんの前に立ちはだかる世間の巨大な無知の壁がサラッと提示されていると思う。
さらに、まだ同性愛やゲイという言い方は、いわゆる政治的な正しさ(Political Crrectness)に則っているが、タイトルにあるホモというのは蔑称で、より根深く、その分余計たちが悪い。
「ホモとか、気持ち悪いじゃん」気持ち悪い。仕方ない。心を止めることは出来ない。身体が止まればいい。(略)どうしたって僕はマイノリティだ。摩擦をゼロにするように、空気抵抗を無視するように存在しないことにされてもおかしくない存在。気持ち悪いなんて評価、もう聞き飽きるほど耳にしている。だけど何回殴られたって、痛いものは痛い。(略)
ふとした瞬間に知人の男子が発した言葉に対する純くんの心内語は痛々しいが、ホモという言葉は高校生の認識をよりダイレクトに反映していると言える。
しかし、主人公の純くんは殴られて打ち負かされるような軟な男の子ではない。
彼は誰よりも男らしく果敢に自らの前に立ちはだかった壁に正面からぶつかっていくことになる。
そして私たち読者は物語が展開するにつれ、彼のひたむきな勇気に、また彼を支え応援する者たちの姿に強く胸を打たれることになる。
主人公の純くんは同性愛者という自分の存在を獲得するために必死に闘わなければならない。
そんな世界に私たちは生きている。
表面的には多様性は認められ、一見すると同性愛も市民権を手にしつつあるように見えるが、それはあくまでメディアや言論の上であって、現実の社会に生きている当事者にとっては単なる綺麗ごとに過ぎない。
そんな状況を視野に入れて、あえて作者はホモという政治的に正しくない、より現実に根差したリアルな言葉を選んだのだろうと私は個人的に思う。
この小説のタイトルにはイオンモールの書店で私が感じたような、ホモという言葉にどこか後ろ暗い複雑な思いを抱いてしまう読者に向けた戦略的なメッセージの意味合いが込められていると思う。
日本文学には三島由紀夫、谷崎潤一郎、川端康成に見られるように同性愛を扱った作品が多く存在する。
けれども、これらの作品は文学という厚い殻に守られている。
世界的な評価を得た高尚な芸術作品だから、たとえ内容が同性愛を扱っていたとしても、誰もが安心して臆することなく本を手に取るのだろう。
今の世の中で、たとえば三島由紀夫の『仮面の告白』や『禁色』をイオンモールの書店で人目を避けるようにして手にする読者は恐らくいないだろう。
私はこれまで同性愛を扱ったに三島、谷崎、川端などの作品も長年愛読してきた。
もちろん、彼らの作品はいずれも素晴らしい傑作だ。
でも、それらの作品には、どこか自分たちとはかけ離れた遠い世界の出来事を描いたような微妙な距離感がある。
皮肉なことに、世界文学という肩書が、作品をどこか手の届かない別の次元に持ち上げてしまうのだ。
ところが、この小説は違った。
文学という防御壁を完全に取り払って、人が人を好きなるという切実な気持ちを、一切オブラートに包むことなく平明な言葉で体当たりで書いている。
『(略)僕たちは優秀なセンサーを一つ、身体に備えているじゃないか』(略)『ペニスが勃つ「好き」と、勃たない「好き」だ』
これほどまでにシンプルかつ分かりやすく、男子にとっての好きを表現した記述はこれまでに一度も見たことがない。
圧倒的に完璧な定理だと思う。
だが、同性に対してこのセンサーが反応するというだけで、事態は当事者にとって、いきなりややこしくなる。
それを自分で受け入れることは難しいし、さらに友人や家族に告げることは恐らくもっと困難である。
認めてしまえば、その瞬間に世界のサイクルから弾かれることを意味するからだ。
純くんは、生まれてきたことの意味について考えながら激しく葛藤する。
僕は全てが欲しい。男に抱かれて悦びたい。女を抱いて子を生したい。誰かの息子として甘えたい。自分の子供を甘やかしたい。欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい。
しかし、いくらそう強く願っても、純くんの欲しいものが手に入ることはない。
付き合っている三浦さんに全くセンサーが反応しないからだ。
そして、何度も何度も終わりのない自問自答を繰り返す。
女を抱ける男は偉い。誰よりも僕自身が、そう思っている。(略)男と抱き合う男は気持ち悪い。(略)違う。違う。違う。絶対にそんなことはありえない。
僕は疲れた。こんな人生、これ以上やってもしょうがない。ここで終わらせたい。それだけなんだ。
病気だと言ってくれ。原因のある疾患なんだと、治療をすれば治る病なんだと言ってくれ。その為なら僕はこの腕一本ぐらい、捧げても構わない。
神様。なぜあなたは、僕のような存在をお創りになるのですか。必要だからですか。それともーー
一方で、この小説のもう一人の主人公である腐女子の三浦さんは、ある出来事をきっかけにして偶然にも純くんが同性愛者だと分かった後も、戸惑いながらも、ずっと彼のそばに寄り添い続ける。
これが従来の同性愛を扱った小説にはなかった新規性を物語に与える。
タイトルが示す通り出会った頃は単なる腐女子だったが、彼女は純くんのことを本気で好きになる。
そして、その気持ちが徐々に彼を動かしていく。
分かっている。彼女が好きなものは僕であってホモではない。
タイトルが反転したこの瞬間に、物語は大きく動き出す。
三浦さんは純くんのことを理解しようとする。
自分をさらけ出して初めて他人は相手のことを理解できるのだ。
その意味で彼に道を開いた三浦さんの存在はとても大きい。
やがて、彼は自己否定の固い殻を破るようにして果敢に立ち上がる。
そして段々と彼を取り巻く世界は変わっていく。
まとめ
摩擦をゼロにするな。
空気抵抗を無視するな。
世界を簡単にするな。
彼が命懸けで投げる直球は読者の胸の真ん中にズシリと響く。
最初に抱いた、私のためらいは、いつしか心の中で蒸留され、涙となってきれいさっぱり流れ去っていたことに気がついた。
こんな小説に出会えることは滅多にない。
この作品は現代日本の『ライ麦で捕まえて』だと言っても過言ではない。
きっと、これから先も青春小説の名作として多くの人たちに読み継がれていくだろう。
ちなみに読了後、この小説を勧めてくれたTwitterの友達に早速、DMをしてみた。
感動はちゃんと伝わっているだろうか。
ふと私はそんなことを考えつつ、一人でも多くの人たちが、この素晴らしい小説を手に取って、どういう形であれ、それぞれの感想を共有することができればいいなと思っている。
主題歌:Queen/Love of My Life
この小説の中では繰り返しQueenの話が出てくる。
しかも各章ごとにQueenの楽曲が見出しとして使われていて、内容と密接に関連しているのが面白い。
私は思わずスマホで作品に登場するQueenのアルバムをダウンロードして、物語を思い出しながらよく聞いている。
なかでも純くんの一番のお気に入り『Love of My Life』がおすすめです!
ピアノの綺麗な伴奏で切ない旋律を歌い上げるフレディ・マーキュリーの歌声はジンとくること間違いなし。
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