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舞城王太郎 新PJ発動
舞城王太郎という作家をご存じだろうか。
印象的な名前のこの作家、実は覆面作家を貫いており、権威ある三島由紀夫賞を受賞したときも姿を現さなかった。
しかし活動は非常に活発で文字通り、本当の意味での著者多数だ。
『好き好き大好き超愛してる。』(講談社文庫)など題名だけでも惹かれる小説や
話題の漫画『バイオーグ・トリニティ』(舞城王太郎原作・大暮維人作画、集英社)、映画やアニメなど小説以外にも活動している。
きっとページをめくれば話し言葉でスピード感をもった文体で書かれる作品に、あっという間に、取り込まれてしまうだろう。
そんな舞城王太郎氏の新PJ(プロジェクト)が発動した。
2か月連続作品集刊行。
ピンと来ない方に説明したい。
これはすごいことなのだ。
失礼に当たるかもしれないが、4年前、2014年のとある作家の宣言を覚えている方はいるだろうか。
『夜は短し歩けよ乙女』や『ペンギンハイウェイ』でお馴染みの森見登美彦氏の10周年延長宣言。
作家10周年記念作品として『聖なる怠け者の冒険』『有頂天家族第二部』『夜行』等を挙げたものの、それらのうち刊行できたのは『聖なる怠け者の冒険』のみという状況で10周年を延長したのだ。
10周年というものが延長できるのかといわれても当の本人が延長したのだからなにもいえない。
これはもちろん森見登美彦氏が怠けていたわけではなく(10周年延長自体がおもしろくわたしを含めファンにとっては作品だけでなくそういうところまで魅力的なのだが)、本当に小説ができるのは大変だということだ。
なので2か月連続作品集刊行は驚くべきことで、もう来月が待ち遠しいほどうれしいことなのだ。
そしてこのPJにはそれぞれテーマがあり、1作品目は恋篇となっている。
どういう恋か。
それは題名が表している。
You are the apple of my eye.
直訳すると「私はあなたの瞳の林檎」。
題名になるこの英文は「あなたのことは目に入れても痛くないほど愛している/大事だ。」という意味だ。
つまりそれほど愛しているということで、言うならば、「好き好き大好き超愛してる」だろうか。
しかし読んでみると違う。
瞳に入れてもいたくないほど好きだけれど、好きとしか言いようがないけれど、はっきりとは言えない感情を抱えている物語なのだ。
大人からすると10代の恋というのは本当の恋愛じゃない、という人がいる。けれど当然のように、ほとんどの人が今を生きている。
そして今、目の前にある恋は紛れもなく本当で、本気だ。
そして10代のころの鮮烈な記憶は大人になっても力を持ち続ける。
忘れられなく、後悔ともいえるような感情を抱きながら大人になっていく。
わたしはいい本だと思う基準の1つに2度読めるかということを考える。
2度というのは今と10年後、もしくは20年後の2回。
そしてこの作品は特に10代の人に読んでもらいたい。
今と重ねながら、共感したり、大人は嘘つきだと反発したりしながら。
そして大人になったら、ふとした瞬間に読み返したくなるだろう。
一方、大人の方には昔を振り返りながら読んで欲しい。
振り返ろうとしなくても自然に思い返してしまう。そんな小説になっている。
昔を思い出すというとノスタルジックな感じがするが、広がるのはセピア色の日に焼けた写真のようなイメージではなく、もっと鮮明なものはずだ。
そんな要素が詰まったこの作品は3つの短編からなっている。
それぞれ紹介していきたい。
純粋すぎる恋「私はあなたは瞳の中の林檎」(あらすじと紹介)
あらすじ
中学3年生の英語の時間にならったイディオム。“You are the apple of the eye.”が「あなたのことは目に入れても痛くないほど愛している」となるのを、「僕」(戸ヶ崎直紀)はどうして林檎?と思わずにすんなり理解できた。
「僕」にはそんな存在、「林檎」がいたから。
気がついたら特別になっていた存在である「林檎」のことが「僕」は大好きだった。
高校生になったある時、「僕」はバイト先の先輩にその気持ちは偽物だと言われてしまう。
純粋すぎる恋
表題にもなっているこの話は「林檎」に恋する「僕」の話。
とあることから「林檎」のことを好きだと確信し、周りからからかわれてもその「好き」を貫き通す純粋な恋心が描かれている。
「林檎」と「僕」が過ごした初々しい夏休みの日々。
また中学生にもどりたくなってしまう。
周りにからかわれながらも決して嘘でも違うと言わないところから、「僕」の確固とした強い意志を感じられます。
バイト先の先輩からその気持ちは偽物だと言われ論破されてる?と思えるところがあるが、そこから「僕」がその意思を貫き通せるのか、心情がどう変化しているのか注目してみて欲しい。
読むほど刺さる「ほにゃららサラダ」(あらすじと紹介)
あらすじ
芸術家志望の「私」(松原)はもう美大の1年生にしていろいろと悟っている。
自分には芸術ができないと。
うまい絵も描ける、見た事のない造形だってつくれる、けど芸術は無理。
小説で賞を取った高橋君、もう芸術で仕事をしている高槻君、そして友人のビンちゃんとともに過ごしながら、芸術について、そして高橋君から問いかけられた、絵が描きたいのか、絵描きになりたいのか、について考えていく。
「私」は天才である高槻君と付き合うこととなり、自分の凡人具合に苦しむが……
読むほど刺さる
誰しも経験したことがあるのではないだろうか。
部活でもなんでも、「あ、プロにはなれないな」、というとき。
プロや芸術家になれるのはほんの一握りの人たちだけだが、それを本気で目指しているわけではなくても悟る瞬間がある。
「私」もその1人。
ただ違うのがでもなれるかもしれないと思っているところ。
想像だけは完璧。
芸術家になって、賞をとってメディアに取り上げられてと手に取るように想像できる。
しかし自分自身はそうなるために努力せず、手を動かさず、なれるもんならなりたいけれど、と思うもののどうせなれないのだからとなにもしていない状況。
そんな中、会うのが1人の才能。
すでに芸術家として活動している「高槻君」。
才能に圧倒されながらも惹かれあっていくが、天才と自分との圧倒的な差に次第に一緒に居づらくなる。
大好きだけど、目の前にある人は私がなれなかったもので、しかしそれは才能って一言で片付けられるものでもなく、一緒にいてこそわかった努力や日々を芸術に昇華する行動。
そして、一緒にいられないと悟る。
何気ない会話から引き出される本質に少しずつ向き合いながら、「私」がどう進んでいくのか。
題名のほにゃららの部分に何が入るのか、楽しみにして読んでほしい。
生きる意味が知りたい「ぼくが乗るべき遠くの列車」(あらすじと紹介)
あらすじ
15歳までに死ぬと思っていた「僕」(倉本)は、その考えからすべて無価値と変に悟っていたところがあった。
中一のとき、菊池鴨に「そんなの寂しいやんか」と言われその場で「1年A組最高!」と復唱させられる。
自分の考えに迷う中、クラスメイトの鵜飼真央に「もっとまともかとおもってた」と言われる。
不安定な思いを胸に抱えながら、生きる意味を考える「僕」は思わぬ形で二人から、その答えをもらった。
生きる意味が知りたい
なんのために生きているのか。
「僕」のように深刻に考えるほどではなくとも、一度は考えたことはあるのではないだろうか。
考えなくても思ったことがある人は多いと思う。
そんなとき大抵の人は、そう思ったこと自体を忘れてしまうか、考えることを辞めることが出来る。
しかし「僕」はそうじゃない。
真面目に彼なりに生きることの価値について考えてきた。
まるで中二病のような感じだが、たんに中二病と片付けられないのは、いかに彼が真剣なのか伝わるからだ。
主に2人との関わりの中で迷いながらもずっと考えていく「僕」の姿をみてほしい。
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