あらすじ・内容紹介
若林正恭さんが、多忙なスケジュールの合間を縫って取れた僅かな休日を利用して2016年キューバへ旅立つことを決意した日から、帰国するまでの5日間の記録を克明に綴った純粋にプライベートな旅行記。
表参道のセレブ犬とカヴァーニャ要塞の野良犬の感想(ネタバレ)
昔から個人的に旅行が苦手だ。
私は人と比べて行動力があるとはとても言い難いし、面倒くさいことはできるだけ避けたい。
旅行をするのは私にとって最も面倒くさいことのひとつだ。
此処じゃないない何処かへ、というボードレールの台詞も私にはまったく響かない。
どうせどこだって同じだろうと思ってしまう。
なので世界を見て回りたいという欲求が基本的にない。
今はそもそも世界はグーグルマップに収まっている。
ひと昔前なら、あまり人が訪れたことのない手つかずの場所があっただろう。
けれども現代において世界は驚くほどフラットに画一化され、わざわざ行く価値や理由を見出せる価値のある場所はどこにも残っていない。
世界はコマーシャル化され尽くしていて、旅行記や紀行文の類は、今の世の中ほとんど成り立たないのではないか、と思っていた。
サンクトペテルブルクにだって普通にどこにでもマクドナルドがある時代なのだ。
さぞやドストエフスキーもびっくりしているだろう。
私は少年時代から村上龍さんが好きで、彼のいくつかの作品を通じてキューバというキーワードが頭の中に自然にインプットされていた。
それも90年代半ばまでのことだ。
気づけば村上龍さんの著作からも、いつしかキューバという言葉は徐々に消えていき、いつしか私の中でもキューバへの関心は薄れていった。
これも個人的な話で恐縮だが、私は結局のところ、去年話題になった小説、ボクたちはみんな大人になれなかったの主人公のように、小沢健二が流行っていた90年代の残像をずっと引きずり続けているのだ。
こうした状況を踏まえた上で、どうして若林さんは改めて今さらキューバという場所を選び、わざわざ旅行記を書こうと思ったのだろう。
この本を手に取ったのは、そのような極めてパーソナルで素朴な疑問からだ。
若林さんは年代的には少し年下だが、私はきっと90年代に青春時代を送った者同士として、キューバというキーワードを基に今を生きている若林さんの思いを知りたかったのだと思う。
まず、なぜキューバなのかについては、本編が始まる前に2014年にニューヨークを訪れた若林さんが自由の女神を見に行くために船に乗ってハドソン川を進みウォール街の高層ビル群を眺めていた時に述べる次の言葉が大きなヒントとなっている。
そして奇妙な感覚に囚われた。もしかして、ここから発信されている価値観が、太平洋を渡って東京に住むぼくの耳まで届いていたのではないだろうか?という直感だ。「やりがいのある仕事をして、手に入れたお金で人生を楽しみましょう!」(略)船は自由の女神の目の前で泊まった。それを見上げると、ぼくは深い溜め息をついた。
アメリカとの国交が回復して、グローバリゼーションに飲み込まれる前にキューバに行きたいという人は多いらしい。
若林さんもその一人だったようだ。
余談だが、なぜか教育行政などではグローバル化は、まるで良いことのように教えられている。
大学では、よくグローバル人材育成という言葉をよく耳にする。
TOEICというビジネス英語検定試験が隆盛を極め、日本の企業内で英語を公用語化するという訳の分からない風潮が当たり前のようにまかり通っている。
そういえば、TOEICは90年代にはほとんど認知度がなかった。
果たしてそんなものがあったかどうかさえも怪しい。
一体いつからこんな事態になってしまったのだろうか。
答えは、この本の最初に若林さんが示している新自由主義という言葉に隠されている。
2000年代から台頭してきた英語が使える日本人という国策は、グローバル化により国家という概念すらなくなりつつある中で、とにかく自由競争において儲けたもん勝ちという発想からきている。
要は国境なき拝金思想の超進化系だ。
私たちは今そのような世の中で生きている。
若林さんはそんな時代の流れに対して次のように述べている。
ぼくの違和感。胸に秘めざるを得ない疑いの念。ブラック企業が増えたこと。「スペックが高い」という言葉が人間に使われること。「超富裕層」「格差」「不寛容社会」。勝っても負けても居心地が悪い。
キューバは恐らく世界中にまるで疫病のように蔓延しているグローバリゼーションから唯一逃れている国なのだろう。
若林さんはたった5日間(厳密には3日間)という限られた期間の中で、こうした違和感から解放され、つかの間の自由を味わう。
キューバに到着してから若林さんは平明な言葉で自分の感じたことを綴っていく。
ホテルに着いた初日にハバナの景色を眺めていた時の言葉がとても印象的だ。
汚くて古いのに、東京の街並みよりも活気を感じるのはなぜだろう。どのくらいの時間眺めていただろう。全然飽きなかった。しばらくすると、街は太陽の光を浴びて色を伴ってきた。人の声や、車の音、人間の活動する音が徐々に耳にはいってきた。
若林さんの言葉はシンプルで力強くスッと頭に入ってくる。
その後、キューバ人の現地ガイドと一緒に革命博物館や、タイトルにもあるカバーニャ要塞や、ゲバラ邸宅や、ジャズバーなどをめぐる。
私は旅行記の類を読んだことはほとんどない。
名前くらいは聞いたことのある有名なものも苦手だ。
勝手なイメージだが、なんとなく貧乏な若者が旅をして一回り大きく成長するというような、教養小説的な物語性に共感できないからだ。
けれども、若林さんの場合は違う。
社会人として忙しく働き、休日に旅行をするというスタンスが基底にあり、どこか醒めた視線で淡々と語られる記述の中に、はっとするような思想や発見があるからだ。
大げさなドラマもなく常識的な大人の目線で異化を描く筆致にこの本の良さがある。
夏目漱石のいう写生文のような静けさが読んでいてとても心地いい。
たとえば、まるで文学作品のような秀逸なタイトルにもなっている章に、キューバという国に対する若林さんの考え方がギュッと濃縮還元されている。
カバーニャ要塞で見た野良犬を見て述べる箇所だ。
あの犬は手厚い庇護を受けていない。観光客に取り入って餌を貰っている。そして、少し汚れている。だけれども、自由だ。誰かに飼いならされるより自由と貧しさを選んでいた。ぼくの幻想だろうか?それとも、キューバだろうか?
けれども、良いことばかりではない。
キューバにもスマホを国外の親類から貰って持っていたり、グローバリゼーションの波は確実に押し寄せている。
そして、この本を読んで初めて知ったのはキューバはアミーゴ社会で、高い地位にいる人を知っていることが階級の差を生み出しているということだ。
よく資本主義はセカンドベストと言われるが、社会主義は結局のところ無理がある。
日本の自由競争は機会の平等であり、結果の不公平だろう。キューバの社会主義は結果が平等になることを目指していて、機会は不平等だといえるのかもしれない。
私は資本主義と社会主義の違いについて、これほどまでにシンプルで分かりやすい記述を今まで読んだことがない。
この本のなかで若林さんはこういう物事の本質をいとも簡単に記す。
そして、この本で最も感動的なのは、若林さんが旅の終わりに自分の父親との記憶を呼び起こす箇所だ。
後半の音叉という章で、旅行記から一気に純文学のような作風を帯びてくる。
この章は誰が誰に語り掛けているのか分からない不思議な浮遊感を伴って突如キューバから、若林さんが子供だった頃の隅田川へと空間移行する。
スマホに死んだ親父の画像を映し出し「ねえ、親父」と話しかける。
ここから若林さんは亡くなった父親との思い出を回顧する。
マレコン通りという章は、まるでこれだけ独立した短編小説のようなきらめきを放ちグッと読者の胸を打つ。
遠い異国の地で過去の自分と向き合うことになるのだが、それはやはりキューバでなければならなかったのだ。
村上龍さんの短編小説、或る恋の物語の最後に、キューバは、人間が、人間に甘えることを許さない、という印象的な台詞がある。
私は若林さんがキューバに旅立ったのは甘えの構造で成り立っている日本社会から一旦離れる必要があったからなのではないかと思う。
甘えのない環境でしか本当に大切なものとは何かを見極めることはできないからだ。
マレコン通りに集まる人々の顔が脳裏に浮かんでくる。ああいう表情は、どういう気持ちの時にするのだろう?この目で見たかったのは競争相手ではない人間同士が話をしている時の表情だったのかもしれない。ぼくが求めていたものは、血の通った関係だった。ぼくにとって、その象徴の一人が親父だった。
こうして5日間のキューバ旅行の最後に若林さんは、ひとつの答えを導き出す。
まとめ
この本は旅行記でありながら、じつは自己との対話を言語化した作品として仕上がっている。
キューバはそのための装置であり、その装置は現代において未だにそのような対話を可能にする場所なのだ。
それが若林さんが旅に出る理由だったのだと思う。
主題歌:小沢健二/僕らが旅に出る理由
小沢健二「僕らが旅に出る理由」
私の頭の中では、この本を読みながら、90年代に大ヒットした小沢健二さんの僕らが旅に出る理由のサビの歌詞がずっと鳴り響いていた。
遠くから届く宇宙の光、街中でつづいてく暮らし、ぼくらが住むこの世界では旅に出る理由があり、誰もみな手をふってしばし別れる、
キューバとは何の関係もなく、まったく個人的な選曲です。
でも、何故かこの曲しかないと確信しています。
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