何かにつけて「これだからゆとりは」と言われがちな「ゆとり世代」。
でも、全部が全部悪いことだけじゃない。
笑いながら「ゆとり世代」の日常と頭の中をのぞいてみませんか?
こんな人におすすめ!
- とにかく笑いたい人
- ゆとり世代ど真ん中だった人
- 「これだからゆとりは……」と思っている人
あらすじ・内容紹介
朝井リョウ、小説家。
大学在学中に男性としては、戦後最年少で直木賞を受賞した。
そんな彼の早稲田大学在学中の思い出を、笑いと苦笑いと泣き笑いで送る。
お腹の弱さを呪い、講義の教室を間違え、旅の計画に失敗し、母の爆笑エピソードを披露し、ピンク映画館でピンク映画じゃない部分に絶句し(エロさを微塵も感じることなく)、してもいない就職活動のエッセイを書いた当時の自分にツッコミを入れる。
おそらく「小説家」という肩書きを大学在学中に持っていること以外、ほかの大学生となんら変わりない日々を送っているであろう。
けれどそこにはたしかに「小説家」でしか書けない記録がある。
ゆとり世代ど真ん中な彼の送った毎日は、同じ世代にしか共感できない部分もある。
けれど、とりあえず、笑いたい人はこの本を読もう。
『時をかけるゆとり』の感想・特徴(ネタバレなし)
ゆとり世代万歳
著者の朝井リョウさんは1989年生まれだから、私の2つ上。
ちょうど小学4年生ぐらいからゆとり教育が始まっていると思う。
今の小中学生は知らないと思うけれど、義務教育は土曜日も隔週で授業が午前中にあった。
私が小学2年生のときそれは終わって、ゆとり教育が始まったのだけど、今の子たちはそれを知らないかと思うとちょっと怖い。
この本を読むと、「ゆとり世代ってこんな思考回路なの!?」(褒めてる)とジェネレーションギャップを受けるか「こいつただのアホだ」(褒めてる)と思うかの二択かもしれない。
ちなみに私は「分かる……」と思う部分も多々あった。
私は高校生で不登校となり、大学も持病のために中退した。
だから大学生のあの、キラキラしたキャンパスライフを体験はできなかったけれど、「ゆとり世代の大学生ってこんな感じなんだね」と心の底から笑えて、「あんたも中退してなかったらこうなってたんだよ!」と自分で自分にツッコミを入れた。
ゆとり世代万歳である。
どうしてあんなにもバカだったのか
高校生から大学生のときって、なぜか力が有り余っている感がすごい。
それを「青春」と呼べばかっこいいけれど、当事者たちは「青春」なんてきれいな言葉でまとめられるほどの自覚はない。
「青春」というのは、大人になって振り返ったときによみがえる思い出のことだ。
それと同時に「青春」という言葉は都合がよく、よかったことも悪かったことも包括して「青春」と呼ぶ。
「どうしてこんなバカなことしたんだ」と教師に叱られても、本人たちは有り余るエネルギーの持って行き場がないのだ。
「バカなこと」と大人たちは言うけれど、とうのゆとり世代たちにとっては「真剣なこと」なのだ。
「バカなことをした」と思うのは、ずっとずっと先である。
朝井さんの「東京から京都まで自転車で行く」というエピソードは、まさにそんな「青春」であり「バカなこと」を体現したようなものだった。
疲れることを嫌うのは、大人になった証拠だと思うのだ。
だれが自転車で東京から京都まで行くことを「疲れなさそう!楽しそう!」と思う?
大人になればなるほど、省エネで動きたいと思ってしまう。
私なぞ、読書の妨げになるからと言って大好きなコーヒーを昼間は飲まない(利尿作用でトイレが近くなって、何度も読書を中断されるのが煩わしいから)。
体を動かすことが好きな人はいいけれど、たいていの大人が休日は仕事の疲れを癒すことに充てる。
つまり、疲れるのは百も承知で「東京から京都へ自転車で行こう」と思うのはゆとり世代かつ、大学生という特異な期間だけなのだ(大学生は夏休みが長いし)。
ゆとり教育はなにも悪いことだらけではない。
有り余るエネルギーを大人が考えそうもないことに注ぎこむ情熱を持ち、そして実現してしまう力を持っている。
ふと昔を思い出したときに、「悪くなかったよな」と思えるような日々を過ごせるのも、私たちゆとり世代のなせる技ではなかろうか。
たとえそれが「バカなこと」だとしても、それこそ大人になってしまえば「青春だった」とすべてがキレイに見える。
そうなる日まで、とことん「バカなこと」をすればいい。
適切過ぎる擬音語が笑いどころ
このエッセイ、割と擬音語が多い。
私は本を読む上で擬音語が頻出されるのを好まない。
なぜなら「プロの作家だったら、擬音語なんかに頼らずに己の持てる表現力をフルに使ってくれよ!」と思ってしまうからである(作家に情け容赦ない)。
なので例えば、爆発のシーンとかで「どっかーん!」なんて書いてあったらもちろん興ざめ。
「擬音語で済ますなぁぁぁ!!」と怒りまでもが湧いてきてしまう。
けれど、朝井さんのエッセイに関しては擬音語がなくてはならない要素なのだ。
例えば「ピンク映画館で興奮する」のエピソード。
でーい!でーいでーい!
友人に視線を送る朝井さんのこの擬音語。
噴き出した。
視線を送る擬音語といえば「チラッと」とか「じーっと」とかなのに、なんなの「でーい!」って。
ちなみに、友人の仮名が「でーい」だったわけではない。
あくまでも視線を送る擬音語が「でーい!」なのだ。
もう1つ噴き出した部分がこのエピソードにある。
頭の中でパンパカパーンとファンファーレが鳴り響き
前後の文を深くは考えず、ここだけ読んでも面白い。
私はここを読んだ瞬間に「ぶふっ」ときたない笑いが込み上げてきた。
いまどき文章で「パンパカパーン」と書く本がラノベ(ライトノベル)以外であるだろうか。
私はラノベも大好きだからよく読むけれど、擬音語が満載のラノベでもなかなかお目にかかれない表現である。
まとめ
本の帯に「圧倒的に無意味な読書体験」と書いてあるけれど、読書に意味を求めてはいけないと思わせてくれる本とはまさにこのことである。
新型コロナで倒産や、失業、休校と暗いニュースばかりが飛び交うけれど、そんなもの見たくなきゃ見ない方がいい。
私たちは高度な情報社会で生きているけれど、自分に必要な情報を取捨選択しなければ疲弊してしまう。
そして、自分に必要な情報はほんのちょっぴりしかないのだ。
今必要なことは、笑うこと。
物事に意味ばかり求めないこと。
「新型コロナ、大変だったよね」と笑える日が来るまでは、自分から笑いを求めていかないと心が死んでしまう。
きっと、この本がその手助けをしてくれます。
とにかく笑いたかったら、これを読む。
この本は「良薬は口に甘し」、ですよ。
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