あらすじ・内容紹介
主人公は栗原泉という洋楽ロックが好きな女の子だ。
この本は栗原泉が17歳〜32歳になるまでの人生およびその中での恋愛を描く。
「今度こそ幸せになりたい」
そう願って恋愛しているだけなのに、結果はいつも空回り。
アイルランドを自転車で旅したり、ニュー・エイジにはまったり、ストーカーに追い掛けられたり、子供を誘拐したり、恋愛で狂うタイプの女の子が最後に辿り着くところは。
角田光代がはじめて描いた”直球”恋愛小説。
あしたはうんと遠くへいこうの感想(ネタバレ)
恋愛小説
角田光代がはじめて描いた”直球”恋愛小説!!
と言いながら全然直球なんかではない。
恋愛小説と謳っているのに、特定の異性が出て来ないからだ。
恋愛小説といえば、特定の男女が居て、問題が現れて、それを解決したり諦めたりするもののはずなのに、この小説では恋人がコロコロと変わっていく。
これを直球恋愛小説と呼べるのだろうか?
いや、それとも直球過ぎて生々しくてフィクションの、恋愛小説の、部分を感じられないからそう思うのかもしれない。
主人公の行動は笑ってしまうぐらいぶっ飛んでいるのに、その行動を起す元になっている恋愛感情は、読み手と同じものなのだ。
人を好きになる感情は十人十色ではあれ、そのどの色も本物だ。
ぶっ飛んでいる、なんてぶっきらぼうなことはない。
日々の生活での誰かとの別れや、一緒に過ごした愛おしい記憶が、行間に蘇ってくる。
恋愛と禁忌
甘いもののことを考えるのはやめようと思うほど、食べてしまう。
恋愛と禁忌は似ていると思う。
ダメとか、上手くいかないとか、頭で冷静に理解できているときほど心は言うことを聞かない。
主人公が高校生の頃に恋をした野崎修三は、おニャン子クラブのファンだった。
対して栗原泉は洋楽ロックばかり聴く女の子。
栗原泉は恋という絶大な力を武器に洋楽ばかり入れたカセットテープをつくった。
夜遅くまでかかったそれを「深夜、勉強に疲れたとき、部屋を暗くして、できるだけ音を大きくして、部屋の真ん中に突っ立って目を閉じて、ぶっ濃いコーヒーを飲みながら聴いてほしい」と重過ぎるメッセージと共に渡す。
早く帰って夕やけニャンニャン(おニャン子クラブの番組)を見たい男に。
まるで、君はロックなんて聴かないと思いながら、少しでも僕に近づいてほしくてと願った今をときめくアーティストみたいだ。
何人か挟んだのちに現れる男は4つ年下で大学を中退して、スケボーに明け暮れるポチというあだ名の男。
ステータス上、ダメな男なのが伝わってくる。
言動、風貌から昔のドラマ、プロポーズ大作戦の濱田岳を彷彿とさせるポチ。
優しくて一緒に居たら楽しそう。
幸せになれるかは別として。
そう感じた台詞が以下の部分だ。
いやならやめさせてあげたいしさ。好きなことだけさしといてあげたいしさ。
ありきたりかもしれないけれど、恋人にこんなことを言えたらそれは本物だと思う。
音楽
音量をあげて部屋の電気をスタンドライトだけにする。部屋が音で膨張していく感じがして気持ちいい。
この文章を書く角田光代は本当に音楽が好きな人だという気がして嬉しくなった。
私も同じような経験があったからだ。
目も鼻も口も全ての機能を停止させたら耳への集中力がとんでもないものになるのではないかと思って実験したことがある。
余計なものは一切入ってこない。
余計なことは考えなくて済む。
空っぽの体の中に音が満たされていくのが気持ち良かった。
この本では自分に関係がある、もしくは近い存在かどうかを音楽で判断することが出来るのも面白いポイントだ。
血迷って、ジャスミンのお香に包まれながらエンヤを聴いている時期や、栗原泉とポチが2人で話している最中に、会話を遮った男が買ったものがオリジナル・ラヴのCDだったといった具合に。
疑問はやばい。
疑問はやばい。
私はいったい何ものなんだ?
何度も何度も自問が現れる。
答えのない類いの自問は自分を苦しめてしまうだけだと分かっていながら、幾度となく主人公はその壁にぶつかる。
筆者の言う通り、疑問はやばい。
だれかを好きだという気持ちの出所はいったいどこだ。
私はなにがしたいんだろう?いったいだれをどんなふうに傷つけたいんだろう
こんな疑問に、真っ当な、百点満点の答えを出せる人間なんているのだろうか。
答えのない自問はまるで波みたいだ。
寄せては返し、返してはまた寄せる。
その正体が知りたくて掴もうとしても手が冷たくなって塩っぱくなるだけ。
感覚が残るだけで何も掴めないあの感じ。
運命
たぶん父親は母に出会わなかったら違う生活を送っていたに違いない。
一番最初の章にさらりと書かれていた一文が脳に張り付いてしまっている。
上手く剥がせなかったシールみたいに暴力的な跡を残して。
運命を変える出会いが、現実世界にたくさんある。
まさか自分がこんなとこに、こんな人と、こんな時に、という瞬間が誰にもある。
人生の分岐的はどこに転がっているか分からないから難しい。
1つだけ神様にワガママを言えるならそれがどんな形でいつ出会うのか教えてほしい。
分岐点に立つ前に準備がしたい。と思うけれど、そんなことを知ってしまったら分岐点に立つことすら無くなってしまうんだろうなとも思う。
人生は良く出来ている。
勘違い
二十歳ちょっと過ぎたころの、どこにでもある恋心でさ、思わぬところへいっちゃったんだなあ
恋愛は言い換えれば勘違いなのかもしれない。
レトルトの味によく似ている、だれの口にも合うかわり、だれからも特別には愛されない。
この考えはとても共感した。
誰にでも好かれようとすればするほど、大好きな人から上手く愛されないのはなんでだろう。
カレーは個性が出る料理だと思う。
母がつくったカレー、恋人がつくるカレー、友達の家で食べるカレー、全部違う。
母のカレーと恋人が同じ味のカレーをつくったら、ひどく運命を感じてしまう。この人しか居ないという勘違いを起こしてしまう。
あの勘違いが恋愛のきっかけで、もっと広い意味で言えば指輪のきっかけにだってなり得る。
主人公も勘違いを繰り返して、恋愛に溺れていく。
疑問が浮かぶ。
じゃあ、もっと上手く勘違いができれば幸せになれるの?
遠くへ
人は、相手のなかに自分を見つけたいんだよ。
痒いところに手が届いた。
本の中にさえ自分を見つけたくなってしまう。
そいつがどんな役割を担って、どんな立ち位置にいるのかを気にしてしまう。
自分と同じものを持つ人と会うと安心する。
なにかを許されたような、間違っていなかったような気分になる。
そこで気がつくのは自分は、結局、自分が好きなのだ。
自分が好きなことは良いことだと思う。
自分を否定して生きる人よりも自分を肯定して生きている人の方が輝いて見える。
だれも助けてくれない。そんなことはわかっているが、それでもやっぱり私はこの一言をつぶやかずにはいられないのだ。だったらいくらでも言えばいい。
ほんと、そんときだねえ、一瞬我を忘れてさあ。そんなの一瞬、一瞬なんだけどさ、あきれるほど見慣れた自分と、ぜんぜん違うことができるって、そう思ったんだよね
それでも自分が自分を肯定してくれないときは、無理やりにでも肯定してあげるべきだ。
「あしたはうんと遠くにいこう」は恋愛小説だと謳っているが、その相手は自分なんじゃないだろうか。
相手を好きになる為に、まずは自分を好きになること。
狂ってるほど誰かを好きな、自分も含めて好きになることが出来れば、こう呟くことが出来るのだろう。
あしたはうんと遠くへ行こう。
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