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【進撃の巨人】エレン・イェーガー——自由の奴隷を超えて

エレン・イェーガーは常に自由を手に入れ、掴み取ることを目指して、命を賭し戦い続けてきた。だが、アニメ版最終回で彼がアルミンにこぼした「俺は自由の奴隷だ」という言葉によって、彼の敗北宣言がなされた。珍しく主人公が最後に負ける話である。

『デスノート』の主人公、夜神月は明白な悪に堕ちたダークヒーローだったから、最後が苦しみに満ちたものであり、敗北に終わるのは腑に落ちやすい。だが、エレンは最初からずっと勇気をもって行動し、自由を得ようと仲間と共に、あるいは敵とも共闘するという点で、『ONE PIECE』のモンキー・D・ルフィーと変わらぬヒーローであったはずだ。ルフィはおそらく海賊王になるだろう。しかし、エレンは大量殺人犯となった。巨人は消滅したが、そこに爽やかな笑顔は無い。

なぜ、そうなってしまったのだろう?自由を求めることは、そんなにいけないことなのか。自由とは何だ。

奴隷について考えておこう。リヴァイの育ての親であり、叔父のケニーアッカーマンが最期に呟いた「みんな何かの奴隷だった」がヒントだ。「酒だったり…女だったり…神様だったりもする。一族…王様…夢…子供…力…。みんな何かに酔っ払ってねえと…やってられなかったんだな」というセリフは、この直前のものである。

つまり、奴隷であるとは酔っ払うこととなる。酔っ払うとは、酒を飲んで酩酊状態となり、現実がおぼろげになり、過去の嫌な記憶、未来の不安、過酷な現実に意識が向かないように麻痺していることを指すと考えられる。となれば、この麻痺状態を作り出すために頼るものの奴隷になるのである。

目的は麻痺にある。神を信じ、女に包まれ、一族の恨みや王の役割を果たし、夢や力を追いかけ、子供に未来を託せば、私たちは麻痺できる。覚醒せず、ほどよい酩酊状態でいられる。そして、自由もまた酒となりうるのだ。

『進撃の巨人』の世界の住人たちは、辛い境遇に置かれた人が多い。ミカサが幼少期アッカーマンとしての力を確定させるときのセリフ「そうだ…この世界は…残酷なんだ」に象徴されるように、現実の実態は弱肉強食、格差、陰謀、欺瞞、怨恨の溢れたものである。世界は悲しみで満ちている。それを和らげるための酩酊、奴隷。覚醒し、主人となることへの恐れ。自分を何かに委ねてしまう方が楽だ。例えば、自由。

では、悲しみに満ちたものではない、平穏な世界ならどうだろう。喜びが際立っているなら、酔う必要は無いのだろうか。基本的にはそうだろう。楽しいことがあるのなら、覚醒したほうがそれらをより多く享受できるのだから。腹が減っているのに、嗅覚が鈍っていることで、美味しいご飯の香りに気づかずにいるのがもったいないように、自分に喜びをもたらしてくれることに気づけないのはもったいない。

ゆえに、私たちは喜びに対して覚醒し、悲しみに対して酩酊しようとする。『進撃の巨人』の物語には、実に多くの悲しみの場面が出てきたので、「みんな何かに酔っ払ってねえとやってられなかった」。

そして、どれほど精力的な活動であれ(エレンやエルヴィンが顕著)、当人が酩酊しているならば、真の自由ではないように思える。なぜなら、酩酊とは自分を麻痺状態にするため、何かの奴隷となることだからだ。奴隷は自由ではない。つまり、「自由の奴隷」という言い回しは、矛盾を孕んでおり、この「自由」を(真の)〈自由〉と同一視することはできない(以下、かっこで使い分ける)。

「自由」とは、エレンにとって開放感を意味していたのではないか。壁に閉じ込められているので、それを破壊したい。その原因は巨人にあるので「1匹残らず」駆逐したい。その先には人類がいて、彼らはエルディア人を差別によって縛りつけており、生命を脅かそうとしているので踏み潰したい。何か他の存在によって自分のしたいことの邪魔をさせられていること、これがエレンにとっての悪ならば、何にも邪魔されない状態を「自由」と呼んでいるように思われる。地ならしで世界中の人を踏みつぶしている最中に少年エレンが言った「これが自由だ」という言葉は、彼の酔っ払うための酒がそこにあったことを示す。これは〈自由〉ではない。なぜなら、寂しげな表情を浮かべていたから。「自由」はあれと〈自由〉はなかった。

では、〈自由〉はどこにあったのか。それは「邪魔者を一掃すること」にはない。現に地ならし後の「新生エルディア帝国」では、他国からの反撃に備え、勇ましく武力化を訴える大衆と軍部が描かれていた。武装による威圧、脅しのみではまた悲劇が起こると直感している者たちもいるが(サシャの家族らなど)、もし彼らが非武装化あるいは武力削減策を声高に訴えれば、「敵」扱いされてしまう予感がある。そして「邪魔物」として排除されるのだ。

邪魔物を追い払い踏みつぶしても、他者は私と異なった存在なので、必ず分かりあえず、相反する点がある。だから再び「駆逐」する。エルヴィンがピクシス司令に冗談まじりで、しかし真面目な顔で言った「人類が1人以下になれば、争いは不可能になります」は、冗談とは言い切れない未来へと反照する。実際、単行本最終巻やアニメのエンディングでは、再び戦争が起こり都市が崩壊する場面が映し出された。大樹にたどり着いた犬を連れた少年は、「1人以下」になった人類の可能性さえある。彼が悲劇の元となったそのウロに入って歴史が繰り返されるのか、通り過ぎたり犬と遊ぶだけで満足したりし、戦いより「面白いこと」に目を向けるのか、あるいはこの場所の言い伝えを知っており鎮魂の祈りを捧げるのか。その選択は、彼の開かれた未来のうちに存する(そして、それは私たちの選択でもある)。

1人以下になるまで、争い合うのは〈自由〉ではない(スポーツの大会は1人になるまで争うが、それは参加者の力を伸ばし合う機会を生み出す疑似的な仕組みであって、本当に敗者が消えてしまうものではない)。1人しかいないと「キャッチボール」も「かけっこ」もできないからだ。巨人を駆逐するという目的の下、調査兵団や104期訓練生の同士や友と切磋琢磨して笑い合うこともできなかった。

これらの時間でエレンやアルミン、ミカサ、そしてジークは心から笑っていた。寂しさはなかった。そのとき、彼らは「遊んでいた」。世界を遊んでいたのだ。

アルミンは言った。「僕はここで3人でかけっこするために生まれてきたんじゃないかって」。

人間の生が遺伝子を残すためにのみあると主張していたジークでさえも「クサヴァーさんとキャッチボールをするためなら、もう一度生まれてきてもよいかも」と思えるようになった。生まれてきてよかったと心から思える時間、それこそが〈自由〉ではないか。自分と違う邪魔物の排除でなく、自分と違う者たちとの交流、刺激、戯れ、成長、支え合い、触れ合い、そういったものの中で、自分が自然に自分らしくいられる時間に、私たちは本当の喜びを得る。

例えば、エレンの自由は単行本最終巻の表紙に描かれた104期生たちとのかけっこにあったのかもしれない。そこに退屈はない。

翻って、彼が求めた「自由」とは、退屈という邪魔者からの解放だったのかもしれない。根源的な「敵」としての退屈。「何か起きねぇかなぁ…」と壁に向かって発した呟きは、母の殺害を憎み、世界と戦い続ける刺激という「酒」を必要とするほど、深刻な実存的危機の予兆であったのかもしれない。不自由から自由を得る運動により退屈を麻痺させる「酔っ払い」としてのエレン。

ゆえに、エレンの自由はこうであった。大人になっても、みんなでかけっこするような生を歩んでいくこと。

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