『現代詩人探偵』あらすじと感想【詩をめぐる鬱くしいミステリー小説】

『現代詩人探偵』あらすじと感想【詩をめぐる鬱くしいミステリー小説】

『美しい』と書いて、『うつくしい』と読む。

同じように、『鬱くしい』と書いて、『うつくしい』と読む。

当て字のような、言葉遊びのようなものですが、これは実際に存在している単語だったりします。

絵や物語を書く世界にいる者、またはそれらを見る事、読む事を嗜みとしている方々にとって、この言葉は見覚えのある言葉ではないでしょうか。

美しいと鬱という言葉を掛け合わせて作られたこの言葉は、美しくありながら、どこか不気味さなどを携さえ、闇を感じる作品を形容する言葉であったりします。

そんな単語を、タイトルに持ってきたのは、今回書かせて頂きます作品が鬱くしい作品だからです。

作品タイトル、現代詩人探偵。

著者、紅玉いづき。

これは、詩という世界に魅入られ、詩人になろうとし、最後には死人になった人々の、その真意を探る、鬱くしいミステリー小説です。

あらすじ・内容紹介

十年前。

とあるSNSにて、「将来的に、詩を書いて生きていきたい人」という参加条件で作られたコミュニティ、『現代詩人卵の会』。

そこに参加するとある九人のメンバーにより、オフ会が開かれた。

彼らは、持ち寄った自分達の詩の合評を行うと同時に、十年後、今度は卵ではなく詩人となって再会しようと誓いあった。

そして十年後、彼らは再び同じ場所に集まった。――生きている者達だけ、で。

集まった人数は『僕』を含めて五人。

他のメンバーは全員、自殺などの不審死を遂げていた。

詩を書き続けながらも、詩人と名乗る立場を得る事も出来ずにいた『僕』は、『詩を書いて生きる』というかつての誓いの言葉に疑問を持ち始めていた。

詩を書いて生きるとは何か。

死んだ彼らは詩では生きられなかったのか。

それとも、彼らを死たらしめた先にこそ、詩の存在はあったのか――。

かつて『探偵』という詩を書いた『僕』は、彼らの真相を探り始める。

詩の先にあるものが、何かを知る為に。

著者:紅玉いづき

作者様は、『紅玉いづき』さん。

2006年に『ミミズクと夜の王』という作品にて、電撃大賞を受賞し、その翌年同作品でデビューを果たした作家様です。

つまり、出身はライトノベル

ライトノベルと言えば、十代の少年(または少女)向けに作られる、エンタメ色のとても強い、まるで漫画をそのまま文章に変換したような作風がとても多いジャンルです。

しかし、紅玉さんの作風は、そんな作風とは真逆に近い作風を持つ方だったりします。

酷く重たく、胸を抉り食らってくるような感覚に襲われる話がとても多く、デビュー作である『ミミズクと夜の王』は、ストレートな童話のような作風である事、そして挿絵が一切ないという異色の形で出た事で話題となったりもしました。

当時、ラノベはまだまだ一般小説との差が不明慮なジャンルとして扱われていた面もあったのですが、それでもやはりどのラノベにも、現在のような絵はついており、挿絵もありました。

その中でのこのような作風でのデビューだった為、その異質さに惹かれた者は多く、今でも知る人ぞ知る有名なラノベ書物だと思われます。

デビュー後は、『人喰い三部作』と呼ばれる、『ミミズクと夜の王』と同世界観の作品を三冊刊行。

後に、その三部作とは別に『ミミズクと夜の王』の続編を一冊。

その後は、角川関係の文庫を中心に、様々な出版社様から作品を出す形で、現在に至るまで作品を書き続けております。

この『現代詩人探偵』は、そんな作者様が描く、初のミステリー小説。

『詩』という、『言葉』を用いて形にする創作物。

その形は違えど、実際に小説という言葉を用いる創作物で仕事をしている紅玉さんが描くその世界には、一体どんな魅力が詰め込まれているのか。

主人公である『僕』が、死んだメンバーの死因を、真意を、探り出そうとしたように、私ならではの言葉でこの作品の魅力について探り出し、ここに書き記して行こうと思います。

ライターという、小説とも詩とも違う、言葉を用いて仕事をする者の言葉として読んで下さると幸いです。

注意
以下、ネタバレ注意です。

現代詩人探偵の感想(ネタバレ)

作品の魅力

詩から始まる物語

こちらの作品には、章のタイトルは存在しておりません

その代わり、各章ごとに詩が一作つけられております。

序章<探偵>
第一章<死を喚ぶ>
第二章<C 一節>
第三章<たのしいうたをうたってよ>
第四章<塩斎>
終章<蒼ざめた馬>

その章の中心人物となる方達の詩です。

どれもがバラバラのテイストで、まるで物を語るかのような文体のものもあれば、謎かけのような文体のもの、童謡のような文体のものと、様々な書き方がなされています。

この全て全く違うテイストの詩が六個も書かれている、という時点でその技術力の凄さには、とても驚きなのですが、これらの詩は当然各章の謎に関与してきます。

詩の存在そのものが謎である章もあれば、比喩として、話題の人物の象徴として描かれる場合もあります。

たとえば、私が心苦しく一番好きだと思っている第一章の<死を喚ぶ>は、最早、そのタイトルだけでなんとなくどのような雰囲気のものが描かれているか、想像つくと思われます。

もちろん、章の話題の中心である作者は亡くなっていて、彼の死を喚んだものはなにかを調べるのが、この話の大筋であり、本編内の言葉を借りるなら『僕』の命題です。

その本格的な始まりを告げるのが、この第一章なのです。

そういう風に見てみると、これは詩のタイトルであると同時に、この第一章そのもののタイトルのように見えてきませんか?

いえ、もしかしたら詩の文そのものが全てタイトルなのかもしれません。

第一章で、死を喚び込んだ事がきっかけで始まるストーリー。詩を読んで、死を喚び込む。

この作品の全ての始まりにふさわしいタイトルだと思いませんか?

序章の<探偵>も、序章が故にストーリーとしては大きな発展は作れません。

が、代わりにここで読者は、『僕』という人物がどのような人間性を持つ相手なのかを知る事ができます。

そういう意味では、<探偵>という詩は、正しくこの序章にふさわしいタイトルのように感じられませんか?

だってこの章は、これからこの物語の『探偵』として動く『僕』の自己紹介をされているような章なのですから。


物語の中で詩を書かない、唯一の存在

この物語の中にはメインの登場人物である『現代詩人卵の会』のメンバー達以外にも、何人もの登場人物達が出てきます。

彼らは基本的には、死したメンバー達の知り合いで、詩を書かない者の方が大半です。

詩を読む事すらない、という人物がほとんどです。

彼らは各章のみで出てくる形で登場する為、あとに引かない形で各章ごとに物語から退場していきます。

けれどその中で唯一、各章全てに登場、もしくは名前だけでも出てくる、それでいて詩を書かない人物がいます。

それが『棗雅人(なつめまさと)』という男。『僕』の友人のような存在。

暑苦しい。鬱陶しい。会話も食い気味に距離を詰めてかきまわす、こいつの乱暴な自意識が本当に嫌いだった。重い、し、負担だ。

それが本文内で書かれている、『僕』から見た棗という友人の存在です。

彼とは小学生からずっと同じ学校に通う立場でしたが、『僕』は棗の事を一度だって好きだと思った事はないとのこと。

棗は詩しかない『僕』とは反対に、友人も知り合いも多い人気者で、自信家で、学校を卒業した今だって、詩人になれずフリーターとして生活している僕とは真反対に、上京して出版会社に勤め、何冊も本を出版させていたりもします。

けどそんな棗は、『僕』の詩が一番好きなのです。

詩を読むのが昔から好きで、そして『僕』が書く詩が一番に好き。

だから、『僕』の詩を世に出したいと思っており、その為に『僕』に詩を書いて貰おうと、『僕』が自分の中にためこんではいるものの、言葉にできずに沈ませている思いを外へ引きずり出そうと様々な手工を『僕』に凝らしてくるのです。

しかしそんな棗のそれが、『僕』にとっては彼の嫌いなところなのです。

自分の詩というものに疑心があり、『詩を書いて生きる』という事へ疑問を持つ『僕』にとって、彼の吐く言葉は常に襲い掛かってくるプレッシャーのようなもので、重たく重たく『僕』の心の中にのしかかってきます。

そして、物語の中において、本題である『ミステリー』の部分とはまた違った点で、『僕』の胸を苦しめてくるのです。

けれど、いえ、それ故に、私はこの物語の中で一番注目すべき登場人物は彼だと、思いました。

詩を書く人達の話の中で、唯一、詩を読む側の人間――つまりは、『読者』なのです。

さらにつめて言うと、つまりは『我々側』の人間なのです。

言葉の前で、ストーリーを想像する私達に比較的近い位置にいる人物なのです。

『詩を書く人々』の物語の中で、唯一の存在の彼の言葉は、『詩を書く人々』とは違った雰囲気に溢れている言葉ばかりです。

『詩を書く人々』が『死』に近い場所にいる者なら、彼は『生』に近い場所にいる者でしょう。

吐く言葉一つ一つに覇気があり、自信があり、ゆるぎない意思のようなものが確かに存在している。

文字通り、対照的な存在です。

死と生。闇と光。影と日向。

彼が眩い言葉を言えば言う程、そして『僕』の詩を好きだと言えば言う程、そこに込められた熱と光は強くなっていく。

けど、彼が好きな詩の作者である『僕』は、そんな彼の言葉が、そして期待が、重すぎて熱すぎて眩し過ぎて、耐えきれないでいる。

でも、もしたとえば『僕』がこの先、詩人になれた、と思える出来事があったとして、その先に待ち受けているのは彼のような耐えきれない存在なのです。

棗は、いわば読者であり『僕』のファンです。

つまり、これから先、詩人になれた時、彼を待っているのは純粋無垢に『好き』という気持ちと期待をぶつけてくる読者やファン達なのです。

棗のような存在は、あってしかるべき存在であり、『僕』がどれだけ嫌がろうとも絶対に現れる存在なのです。

そんな『書く側』と『読む側』の二視点から見た、一つの作品への気持ちの食い違い、入れ違い、もまたこの作品で深く描かれる魅力の一つだと思います。

『詩』という創作物を巡る、創り手と読み手の相反する意見のぶつかり合い。人が死んでいく傍らで描かれる、生きている者同士の争い。

それはきっと、作者と読者が必ず一緒に存在するように、『死』の傍らに必ず存在する、『生』という切っても切り離せない、語らなければならないストーリーであり、

棗という男は、そのキーパーソンだと、そう私は推理をするのです。

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まとめ

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