ときおり、無性に読み返したくなる本がある。
ふとあるシーンを思い出し、そこだけ読み返すつもりが、結局すべて読んでしまうのだ。
私にとって、『キッチン』はそういう作品だ。
よしもとばななが描く世界は、決してこちらを否定することなく、あるがままに受け止めてくれる。
何かに例えるなら、それはさながら優しく包みこんでくれる羊水のようだ。
著者のデビュー作でもあり、今もなお読みつづけられている本書と、どうか出会ってみてほしい。
目次
こんな人におすすめ!
- 孤独や、寂しさを感じている
- 心を静かにしてくれる物語と出会いたい
- 感性の研ぎ澄まされた文章を堪能したい
あらすじ・内容紹介
唯一の肉親である祖母を亡くした桜井みかげは、ひとりで住むには広すぎる家からの引越し先を探していた。
そんなとき、祖母の葬式で出会った田辺雄一(たなべ ゆういち)という青年が家を訪ねてくる。
「母親と相談したんだけど、しばらくうちに来ませんか」
そしてみかげは、雄一とその母親(実は父親)の住むマンションに居候することを決意する。
雄一はみかげの祖母の通う花屋でアルバイトをしており、客と店員という形で知り合っていたのだった。
雄一はみかげよりひとつ年下で、同じ大学に通っている学生だということがわかる。
えり子と名乗った雄一の親は、一度会ったなら忘れられないような美貌と魅力の持ち主だった。
男性ではあるが女性の姿をしており、自分の店を切り盛りしている。
えり子はみかげの作る料理を喜びながら、「行く所がないのは、傷ついている時にはきついことよ。どうか、安心して利用してちょうだい」と温かみのある言葉を告げるのだ。
みかげ、雄一、そしてえり子。
家族ではないけれど、ひとつ屋根の下で寄り添いあい暮らす3人の日々が穏やかに描かれる。
突然の祖母の死に、悲しむ時間もないままにひとりきりになってしまったみかげだったが、田辺家との出会いをきっかけに、ゆっくりと歩みはじめていく。
よしもとばななが描く、再生と喪失の物語。
吉本ばなな『キッチン』の感想・特徴(ネタバレなし)
読み手の感性に訴える、シンプルな文章の魅力
私がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思う。
冒頭のこの一文に、よしもとばななのすごさが凝縮されている。
「私がいちばん好きな場所は台所だ」ではなく、「私がいちばん好きな場所は台所だと思う」という、ふわっとした着地の仕方に注目してほしい。
読者に向かって語りかけるのではなく、みかげ自身のなかに言葉を落とし込んでいくフレーズの選び方に、気づくと読者はみかげの中に入り、その内側からこの物語を眺めているのだ。
やがて、ひっそりとしたキッチンに佇み、かすかな音を立てている冷蔵庫にもたれて、心も体も預けているような感覚に包まれていく。
みかげは早くに両親を亡くしており、祖母と2人きりで暮らしていたが、その祖母まで亡くなってしまう。
先日、なんと祖母が死んでしまった。びっくりした。
いや確かにびっくりなのだが、一番の驚きは、祖母の死について「びっくりした」の一言ですませているところだろう。
心に浮かんだ言葉を、そのままシンプルに投げてくる。
その飾り気のなさが、ストレートに響くのだ。
本来ならそこにあるはずの不安や悲しみが取り払われ、うっすらとした淋しさこそあるものの、ひどく風通しのいい場所のように思えてくる。
するすると読めてしまうところも、著者の魅力のひとつだろう。
家族とも、友人とも違う距離だからこそできること
みかげが初めて雄一と出会ったのは、祖母の葬式の日だった。
焼香しながら泣き腫らした瞳を閉じて手をふるわせ、遺影を見ると、またぽろぽろと涙をこぼした。
それが、雄一だった。
「なにか手伝わせて下さい」と言う雄一に、みかげはさまざまなことをお願いする。
やがて雄一は自分の家に来るようみかげを誘うのだが、みかげにとって思いもよらず快適な暮らしを送ることになる。
長い手足をしたきれいな顔立ちの雄一と、華やかな雰囲気を身にまとったえり子。
家族構成は、この2人だけだ。
雄一は学校とアルバイトがあり、えり子は夜の仕事なので、田辺家に全員がそろうことはほとんどなかった。
田辺家はマンションの十階にあり、居間には巨大なベージュのソファーがあった。
家族みんなで座ってテレビを観るような、立派なソファーだった。
みかげが愛したもののひとつが、このソファーだった。
カーテンの向こうの夜景を感じながらすっと眠りにつく日々に、少しずつ心も体も癒えていった。
みかげと雄一とえり子の関係は、はたから見たら赤の他人ということになるのだろう。
けれど家族とも友人とも違う、ましてや恋人でもないからこそ、その名前のつけられない関係性のなかで、呼吸がしやすいということもあるのではないだろうか。
近すぎず遠すぎず、血の繋がった人間ではなく、そこに適度な距離があるからこそ、救われることもあるのだと思う。
喪失から、再生の一歩手前まで
大切なものを失ったとき、ふたたび前を向くまでにかかる時間は人それぞれだろう。
何年もかかる人もいれば、なかなかそこから抜け出せない人もいる。
本書のなかで、みかげは時間をかけて日の当たる場所へと歩いていく。
けれどそれは、雄一やえり子のように、静かに見守ってくれる存在があったからこそなのだ。
「でも、君はちゃんと元気に、本当の元気をとり戻せばたとえばぼくらが止めたって、出ていける人だって知っている。けど君、今は無理だろう。無理っていうことを伝えてやる身寄りがいないから、ぼくがかわりに見てたんだ。うちの母親が稼ぐ無駄金はこういう時のためにあるんだ。ジューサーを買うためだけじゃない」彼は、笑った。
「利用してくれよ。あせるな」
傷つき疲れ果てたとき、安らいで眠れる場所のあることがどれほど大事か。
喪失から再生の一歩手前までの時間が、この物語には丁寧に描かれているのだ。
しっかり悲しみ、その傷ごと受けとめて、安心できる柔らかな寝具につつまれて眠りにつくこと。
みかげにとっての台所や田辺家のソファーのように、傷ついた羽を休めることのできる居場所がどれほど必要かという事実が静かに紡がれていく。
前を向くよりも、まずはしっかりと悲しみ、心と体をいたわること。
その大切さがひしひしと伝わってくるのだ。
まとめ
この文庫本には『キッチン』と、その続編である『満月』、そして『ムーンライト・シャドウ』という短編小説が収録されている。
たとえば冒頭の一文、たとえば夜中にカツ丼を届けるシーン。
忘れがたいその場面を何度も思い出しては、時折読み返したくなる傑作だ。
喪失と再生、柔らかな空気、光をまとった静かな世界は、まるで夜空に浮かぶ月のようだ。
よしもとばななの描く物語は、言ってしまえば太陽ではなく月の物語なのかもしれない。
叱咤激励するようなそれではなく、傷ついた人の背中にそっと手を当てるような、透明で繊細な世界。
それは傷つきやすく感じやすい人の心を、やさしく救ってくれるだろう。
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