「説明が不足していた」「言葉が足りなかった」
昨今のニュースでは、よくこんな言葉を見聞きするが、これから紹介するのは文字どおり「言葉が足りなくなる」小説であり、1つの大きな実験でもある。
そんな実験をとおして、『残像に口紅を』は言葉が足りなくなりがちな現代社会を生きる人に、言葉の深遠さとかけがえのなさを静かに教えてくれる。
こんな人におすすめ!
- 今まで読んだことのないような小説が読みたい人
- 現代のコミュニケーションにどこか違和感を感じる人
あらすじ・内容紹介
作家・佐治勝夫(さじ かつお)は自らの文学理論「汎虚構理論」を発展させようと悩んでいた。
「現実そのものが虚構だ」と考えている佐治は、友人であり評論家でもある津田得治(つだ とくじ)との話し合いのなかで、「あ」が消えると「愛」という言葉が消えていくように、世界から言語が1つずつ失われていく小説を書くことになった。
そして「現実そのものが虚構だ」という佐治の考えに従うように、佐治が生きる世界からも1つずつ言葉が失われていくようになっていく。
「ぱ」という言葉が消えると同時に「パン屋」や「ジャムパン」も消え、「せ」という言葉が消えると同時に「夏目漱石」の存在も消えていった。
また、佐治の周囲の人間も、ある人は存在そのものが消え、ある人は自分の気持ちを語る言葉を失っていった。
少しずつ言葉が消え、存在も消えていく世界のなかで、佐治の暮らしもゆっくりと変化していく。
言葉が消失し続ける世界の果てで、佐治が辿りついたものとは――。
『残像に口紅を』の感想・特徴(ネタバレなし)
虚構においつく現実
きっと誰もが多かれ少なかれ、言葉を失った経験というものがあると思う。
例えば、学生だった頃、同じクラスの別のグループの会話にまるでついていけず、ただ相槌を打つしかなかった時間や自分のキャラを大切にしすぎたために、いくつもの言葉を飲み込んでしまった経験が誰にでもあると思う。
職場で、学校で、あるいはネット空間でさえも、私たちは今も多くの言葉を失ったまま生きている。
インターネット技術の発展でさえ、自由なコミュニケーションを活性化するどころか言葉はスタンプのような記号に置き換わり、「わかる人にはわかる」という形の内輪ネタを大量生産するだけに留まっている。
言葉を失っているからこそ、コミュニケーション能力などというものが重宝されるようになったようにも思える。
悲しいことに、そのコミュニケーション能力の中身さえ、明確に説明できる人は少ない。だからこそ「言葉が消えていく」という現象が進む本書の世界が私には新鮮に思えた。
本書にはこんな台詞がある。
「ついに現実そのものが虚構だというところまできてしまったね」
これは本書の冒頭、佐治の「汎虚構理論」に対する津田のコメントだ。
現実が、小説以上に虚構的になってきていることを君は『現実が虚構を模倣しはじめた』と宣言したんだったよね
この指摘に、私は衝撃を受けた。そのとおりだと思ったのだ。
脳裏をよぎったのは2001年9月11日の出来事だ。その日、アメリカにある巨大なビルに旅客機が突っ込んだ。このことを知らない人は少ないだろう。アメリカ同時多発テロ事件が起きた日だ。
その衝撃は全世界を駆け巡り、映像をみた人のなかにはこんなことを言う人もいた。
「まるで映画みたいだ」と。虚構を模した現実が、はっきりと現れた瞬間だった。
虚構のなかの生
話を物語のほうへ戻そう。
『残像に口紅を』は世界から言葉が消えていく物語だが、そのことによって社会が大きく混乱する話ではない。
主人公・佐治の日常の変化を描くことに重きをおいている。だからこそ、言葉が失われることの不気味さがしっかりと伝わる。
例えば、文芸賞のパーティに佐治が参加している場面がある。
ふと言葉が消え、何名かの人間の存在が消滅してしまった会場を彼は見渡し、このようなことを思う。
「ここに残っている大勢の人間はいったい何者なのだろう。まるで文壇関係の人間ではないように見えるこの特質のなさそうな多くの人間は。これらの者はもはや単に、佐治にとっての名のない人間などではない。もっと異なった何者かだ」
しかし、佐治が感じている不気味さは、現代社会を生きる私たちにとっては、あまりにも慣れ親しみすぎたものといえる。出歩けば、道行く人々の名前を私たちは知らないのだ。私たちにとってはそんな環境が当たり前なのだ。
大袈裟かもしれないが私たちにとって、道行く人々は人間ではなく、風景の一部になっていると言えるのではないだろうか。
そうであるならば、私たちが慣れ親しんでいるその景色は、佐治が不気味さを感じた景色ととてもよく似ているはずだ。
現実が虚構を真似しているのであれば、現代社会の当たり前の風景は『残像に口紅を』という虚構を現実が模倣しているといえるかもしれない。
ところで、虚構と現実について佐治は次のようなことを思う。
「人の世がそうなのと同じことだ。苦しみは忘れていく。楽しみはその時限りのもの。そして失ったものもまた、忘れていく。残ったものにだけすがりつき、残余の命を保っていこうとする。まるで現実そのものではないか」
『残像に口紅を』が発売された1989年以降、「まるで現実そのもの」と言われているように、社会も人も「残ったものにだけすがりつき、残余の命を保っていこうとする」ようになっていった。
象徴的なものとして、リストカットの増加が挙げられるだろう。リストカットという行為の意味の1つに「生きる実感を得るため」というのがある。
このことは次のように言い換えられるだろう。つまり、虚構のような現実のなかで「残余の命を保っていこうとする」ためにすがりついた「残ったもの」が肉体だったのだ、と。
例えば、ネットアイドルの先駆け的な存在に南条あやという人がいる。彼女のブログは著書『卒業式まで死にません』にまとめられているが、ブログ自体はミラーサイトという形で存在している。そのなかの1998年6月13日のブログには次のようにある。
父は「クスリはぼけるから全部飲むな」と無茶苦茶なことを言うんです。私がリストカットor突然の自殺衝動で死んでもいいのかい!!って感じです
この「リストカットor突然の自殺衝動」という並びは、リストカットというのものが「突然の自殺衝動」を止めることができるものだということを暗に示している。
このことを「残ったものにだけすがりつき、残余の命を保っていこうとする」ことの極端な例だと思うかもしれない。
しかし、その感慨も「残ったもの」すら忘れてしまっているからこそ言えることかもしれないのだ。
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言葉で喜びを生むために
では、佐治のいうとおり「苦しみは忘れていく。楽しみはその時限りのもの。そして失ったものもまた、忘れていく」ものが現実であるならば、現実が虚構に次々と置き換わっていく現代において、私たちは佐治が示しているよなシニカルな生を送るほかないのだろうか。
そんなことはないと私は思う。主人公・佐治と同じく作家をしている堀(ほり)の次の言葉は示唆的だ。
「そんならお前さんはひとが死んだりする悲しい話を書いている時でも楽しいのかといわれた。これはもちろん、その話を考えている時は実に悲しいんだけど、その悲しさがうまく表現できた時、その悲しさが確実に読者に伝わるだろうと確信できた時は実に嬉しい。」
例えば、猛烈に悲しいとき、心がとても苦しいとき、その悲しさや苦しみを語り「そうだったんだね、辛かったんだね」と誰かに伝わる瞬間、私たちは自分の内側から喜びと安堵が湧き上がる。
「ああ、わかってくれた」とホッとする。嬉しいことが伝わったときだって同じだろう。
言葉が誰かに受け取ってもらえた時、その誰かは虚構ではない、かけがえのない存在となって私たちの前に現れる。
このことは同時に、私たちに聴くことや言葉を受け止めることの大切さも示しているように思う。
哲学者・鷲田清一は著書『「聴くこと」の力』で小説家・宇野千代が新聞紙面上で行っていた人生相談の回答に対し「ほとんど質問者のことばの反復である」としたうえで次のように述べている。
「第三者にとってはただの反復にみえる宇野さんのこの回答は、相談者にとってはなにものにも代えがたいものとなったはずだ」
「ことばの端っぽがだれかにつながっている、だれかにキャッチしてもらっているという安心がどこかで生まれている」
SNSでは、今この瞬間にも無数の言葉が飛び交っている。そのほとんどは、分かる人にはわかる、というようなものだろう。
しかし、そのなかには内輪ノリではなく、誰かに受け取ってほしい切実な訴えが混ざっているはずだ。
訴えたいことを自分の言葉で語ることができたとき、そして、その訴えを誰かが受け取ったとき、虚構だらけの現実のなかでも、本物だと思えるような喜びと安心が実るのだと私は思う。
『残像に口紅を』を読み、言葉のかけがえのなさを知った人なら、このことをきっとわかってくれると思う。
まとめ
初版刊行時、結末部分が袋とじになっていた問題作『残像に口紅を』については、実験小説というだけあって、きっと様々な感想があると思う。
しかし、抱いた感想がどんなものであっても、そこで終わりにはせず「どうしてそのような感想を自分は抱いたのか」と振り返ってみてほしい。
言葉を尽くして、自分の心を語ってほしい。どれほどの言葉を自分が持っているのか実験してほしいと思う。
誰かに訴えたい切実な思いが宿ったとき、この試みの結果は自分のことを助けてくれるだろう。
本書による自分自身への実験は、きっと、いつかの自分を助けるものになるだろうと思うのだ。
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