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『ONE PIECE FILM RED』感想・考察。ウタとルフィの「新時代」の違いとは?

ウタとルフィの掲げる「新時代」の違い

映画公開前に『新時代』を聴いて勘づいた人もいるだろうが、『ONE PIECE』本編でシャンクスが告げた「新時代」と、ウタの想像する「新時代」の意味はまるで違う。前者は、若き勢力が既存の体制に揺らぎを与え、秩序や勢力図などが大きく変動する「時代のうねり」を指している。

一方、ウタの目指す「新時代」は逃避的な要素が強い。そのメッセージは『新時代』の歌詞に如実に表れている。「ジャマモノやなものなんて消して」「あれこれいらないものは消して」「目をつぶりみんなで逃げようよ」「世界の向こうへ」「世界中全部変えてしまえば」などだ。

ウタの考える「新時代」というのは、今の時代は「やなもの」で溢れてしまっているから、いっそのこと全てリセットして仮想世界という新しい空間で生きていこう、という考え方である。現代のテクノロジーで考えれば先程言及した「フルダイブ型のメタバースへの逃避」ということになるだろうが、それに限らず、現実に向き合わずにすむ自分の「居心地の良い別世界」全般を指すとも考えられる。これは、リアルの世界で1つ1つ目の前の不条理や暴力と闘いながら乗り越え、現世界の楽しさを謳歌しようとするルフィの「自由」とは相容れない考え方だ。

ウタに「どうして海賊王になんかなりたいの」と聞かれたルフィは「新時代を創るためだ」と言い放つ。つまり、ルフィもまた今の時代は変えるべきことがあるので、新しい時代を創る必要を感じているのだ。このセリフには震えた。筆者の勉強不足かもしれないが、ルフィが海賊王の先に見る「夢の果て」の内容について明言したのは初めてではないだろうか。

「夢の果て」とは、ルフィが幼少期にエースとサボの前で高らかに宣言した「海賊王になった後にやりたいこと」である。エースはマリンフォード頂上決戦において命果てる間際、ルフィに向けて「心残りなら一つある。お前の夢の果てを見れねェことだ」と囁いた。作者・尾田栄一郎は『ONE PIECE』の最終章開始を発表したが、これに合わせてついに究極のテーマであるルフィの「夢の果て」の断片が明かされたことになる。

ルフィはなぜ「夢の果て」を考えついたのか

『ONE PIECE』本編で、子供のルフィがエースと一緒に「独立国家」というボロ小屋をつくって遊ぶシーンが描写されている。ここから、ルフィがなぜ「新時代を創るため」に海賊王になろうと思い立ったのか、その動機の一部を想像することができる。

ルフィのつくった「独立国家」は世界から切り離され、思うがままの「自由」な場所である。しかし、彼はきっとそこがいかに退屈な場所か、遊びの中で想像的に気づいたのではないだろうか。もしそれが本物の「国家」だとして、そこには「海賊になるな!」と怒鳴るガープはいない。自己中心的な海賊もいなければ、自分が何段階も成長しなければならないほど強力な敵やライバルもいない。凶暴な動物もいなければ、危険な冒険の中でしか出会えなかったかけがえのない仲間や友達もいない。それを直感的に理解した。

いやな世界から逃げて、自分だけの心地よい世界に閉じこもってもつまらない。しかし、今の時代は自分の思い描く「自由」からは遠い。であれば、「新世界を創る」のではなく、今あるこの世界と向き合いながら自分が描く「素敵な世界」に近づける、すなわち「新時代を創る」という思想に至ったのではないだろうか。

「革命軍」との比較から見る「海賊」


ウタとルフィの新時代には、既存の世界を捨てて居心地のよい場所に逃げ切るか、あるいは現実の世界と向き合いその中で自分の思う素敵な世界に近づけていくか、という違いがあった。これだけ見れば、ウタの考える「新時代」の方が良いと思う人も多いかもしれない。なにせ現実世界には海賊というあまりに大きな脅威がのさばっているからだ。

「海賊なんて消えてしまえばいい」というウタの気持ちも確かに分かる。それでもなお、おそらく多くの『ONE PIECE』読者や観客が、ルフィの考える「新時代」に希望を見出すであろう。その最大の理由こそが、「ルフィの考える世界には海賊がいるから」である。人々の脅威であるはずの海賊がなぜ希望の理由になるのか。そもそも「海賊」とは何なのかについて考える必要がある。

まずは、革命軍との比較で見ていこう。ドラゴンやサボを筆頭とした革命軍は世界の秩序の崩壊自体を目的とする。「天竜人」を頂点に据えた世界の序列や構造の核(サボ「物には必ず核がある!」)を破壊し、現世界を新しい秩序に組み直すという明確なプランと目的を掲げた上で行動している。目的が「秩序の破壊」1つに集約されているため、(少なくとも本編に登場する)革命軍は1つだけである。

一方、海賊はゴール・D・ロジャーのもたらした大海賊時代によって無数に存在する。それぞれが自分の海賊旗を掲げ、夢や理想を追っている。「ひとつなぎの大秘宝」を追う者、自分の帝国を築こうとする者、富と名声に執着する者、力や技を磨こうとする者、世界地図を描こうとする者、奇跡の海を探す者、亡き者の意志を継ぐ者、家族をつくろうとする者、新しい時代を創る者。カイドウやエネル、アーロンのように人々に不自由や不幸をもたらす海賊もいれば、ルフィやシャンクスたちのように人々に自由をもたらす海賊たちもいる。

彼らの目的はてんでバラバラであり、「ひとつなぎの大秘宝」は実は壮大なきっかけとしての装置だ。海賊たちは、「ワンピースを見つける」という象徴的な目標にみなが引きずり出される現象に”乗った”のである。

ゆえに、海賊の目的は世界秩序の「崩壊」ではない。それぞれ違う夢を追い、スタイルがあり、彼/彼女らによって世界は「撹乱」されるのだ。海軍や世界政府にとって、革命軍は自分らを転覆させようとするため敵対するが、海賊は自分たちにコントロールできない存在だから排除しようとするのだ。秩序を維持する側にとっては同じ敵でも、その意味は大きく異なっている。海賊は、秩序の維持からも破壊からも距離をとって存在する「得体のしれない存在」なのだ。

海賊は脅威と自由を同時にもたらす


海賊の立ち位置が明らかになってきたところで、もう少し抽象化して考えてみよう。「海賊的なもの」とは、想像や予測、コントロールできたりするものの「外側」にいる存在である。そういった存在を哲学では「他者」と呼ぶ。そう、『ONE PIECE』において海賊とは「他者」の象徴なのだ。

「他者」は人や組織のことのみでなく、自分のコントロールできないものや理解が難しいものなど全般を指す。人生は「他者」で満ちている。自分の思い通りにならない他人という字義通りの意味はもちろんのこと、個人の意思で測りきれない社会構造、想像できず不安定な未来、理不尽な言葉に刺されかねないSNS、犯罪やテロの潜在的危険性。

このような被害を受けている人々に対して、「一緒に居心地の良い新しい世界へ行こう」というウタの提案は、大衆の支持を受けて十分なもののように思える。だから、彼女は世界から「他者」の象徴としての海賊を消そうと訴える。

しかし、ルフィが「ボロ小屋独立国家」で悟ったように、全部が自分の思い通りになり、不快なことや予測不能なことが起こらない世界というのは退屈なのである。そんな世界において、どうして『ONE PIECE』本編で私たちの胸を踊らせてくれる冒険が起こりうるだろうか。

「他者」は決して「不快なもの」という一元的存在ではなく、自分の想像を超えた現象を起こしうるただ1つの可能性なのだ。「他者」は、時に不条理の悪魔となり、時に確定されない未来への扉を開く自由の天使にもなる。私たちが自由を感じられるのは、どうなるかわからない「他者」が常に人生において伴走してくれているからなのだ。

海賊に話を戻そう。ワンピース世界において海賊が「他者」の象徴であるとしたら、彼/彼女らが市民にとっていかに不条理で迷惑な存在になり得ようとも、「海賊が存在できる世界」そのものが人々の自由な未来の可能性を維持していると考えられる。海賊は時に迷惑だが、海賊が存在できない世界―世界政府や海軍がいかなる不確定因子の存在も許可しないディストピア―が訪れるよりは、海賊が存在できる世界の方がよほど自由だ。そのようなパースペクティブにおいて、海賊は「不幸の原因」ではなく「自由を担保する存在」なのである。

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