『血の轍』は最恐の毒親を描いた問題作だ。
中学生の息子・静一に、異常な執着を見せる若く美しい母・静子。
彼女が最恐の毒親とされる理由は、その陰湿極まるコントロールの手口。
あなたのまわりにも、恋人かと思うほど距離が近い母と息子の組み合わせはないだろうか。
もちろん全てが毒親とは限らないが、今回は静子が息子を操る心理術を掘り下げ、子どもをコントロールする方法を暴いていきたい。
母と息子の共依存から見る、毒親の典型
静一が幼稚園の頃、静子は「静ちゃんがぐずるから」と、毎日教室の後ろに立って見守っていた。
そのことを「かほごだ」と従兄弟に指摘され、悔しがるものの反論できない静一。
誰しも記憶にあるかもしれない。
引き離されるのを嫌がって園児が泣いて暴れたら、「しょうがないなあ」と母親が付き添うのは珍しくないが、静子はむしろ望んでそれをしているように見える。
中学生になり思春期まっただ中の現在でさえ、静子の甘やかしぶりを少し恥ずかしがりはしても、怒りや生理的嫌悪はまったく示していない。
傍から見ればおかしいのに当事者間に自覚がない。
これは毒親に限らず機能不全家庭の典型だ。
子供の恋愛に口を出す「ママとあの子どっちが大事?」
静一はクラスメイトの可愛い女の子、吹石さんといい感じになる。
しかし静子は許さない。
恋愛による息子の自立をよしとせず、「あの子を選ぶの?ママを選ぶの?」と、嫉妬深い女のようにひしひしプレッシャーをかけてくる。
毒親にとって、子どもは自身の所有物だ。
もちろん自覚はしてないし本人もそうは思ってないが、潜在的に「物」と同じ扱いをしている。
仮に子どもを対等な人間と認めていれば、妊娠や病気など、子どもの手に負えない問題が生じないかぎりプライベートに口を出さない。
人権なりプライバシーなりを尊重しているのだ、一応。
もちろん遥か年上と付き合っていたり、援助交際(死語)していれば注意するだろうが、それは親としての正しい判断であって、過干渉とは分けて考えるべきだ。
しかし静子は吹石さんを敵視し、「あの子はよくないと思うなあ……」とじっとりいやらしい圧力をかけてくる。
静一は吹石さんとやらかす寸前まで行くのだが、結局は家に帰り、なんと静子の面影を思い浮かべて夢精してしまった。
それに対し、息子の下着を汚物のように摘まんで「きったない」と吐き捨てる静子。
これは思春期の少女の反応で、間違っても母親が息子にしていいリアクションじゃない。一生のトラウマになる。
恋愛は自立への第一歩だ。
自分で選んだ相手を好きになる事こそ、親の影響下から踏み出すきっかけとなる。
毒親は支配しやすい子どものままでいることを子に望み、時に尊厳さえ踏みにじり、大人の入口となる性の目覚めを否定する。
そのくせ自身の「女」としての魅力を利用し、「ママとあの子どっちが大事?」と迫るのだからたちが悪い。
え、恋人かよ!過剰なスキンシップで操る
静子は中学生の息子のほっぺたに、ぶちゅうとキスをする。
お礼を言われたのが嬉しかったそうだ。
この他にも「恋人かよ!」と全力で突っ込みたい、過剰なスキンシップを挙げたらきりがない。
エディプスコンプレックスとは母親に執着し、父親に憎悪とを抱く幼児期の心理的抑圧をさす。
語源は実の親と知らず父を殺し母と結ばれた、ギリシャ神話のオイディプス王の悲劇である。
精神的に未熟なほど近親相姦願望が強いとしたら、毒母が息子に依存するのもわかる。
息子の方もスキンシップというご褒美がもらえるならと、盲目的に尽くす悪循環。
さらに飴と鞭を効果的に使い分け、「お仕置き」と「ご褒美」の温度差を出すことで、息子は洗脳されていく。
もし思い当たる人物があなたの近くにいたら気を付けてほしい。
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