いい子とは得てして大人に都合のいい子の別名だ。
どうでもいい子よりはマシかもしれないが、大人に洗脳されて罪を犯してしまったら一大事。
しかも洗脳した本人は、それが本気で子供の為になると思っているのだからタチが悪い。
今回は漫画『聖女の揺籃、毒女の柩』から、虐待や体罰が横行する養護施設の凄惨な実態を覗いてみたい。
聖女で毒婦?二面性を持った院長
本作の主人公は中学生のジューゴ。
アル中の父親を亡くした彼は、弟のシローとともに柘榴が実る島の孤児院に引き取られる。
院長はシスター・コレーと名乗る愛情深い女性で、漸く人並みの暮らしができると兄弟は喜ぶのだが……。
養護施設はそれ自体が大きな密室だ。
両親が死んだシローとジューゴのように、身寄りがいないかいても頼りにならない子供たちにとって、養護施設は最後の砦。
自活が可能な年齢に達していれば出ていけば済むが、中学生や小学生ではそうもいかない。最低限衣食住を保証してもらえる場所が必要なのだ。
最高権力者の院長となれば、施設の外と内に向ける顔はまるで別物というのもよくある話。
のみならず聖女と毒婦の顔を使い分けて子供たちを洗脳し、自分に依存せざるえないように仕向けていく。
できない子を悪鬼の形相で叱り罰したあとは、「よくできましたね」と聖母の微笑みで抱き締める。
鞭だけならただ怯えるだけ、飴だけなら付け上がるだけ。ならば両者を交互に与えて調教すればいい。
鬼子母神(きしもじん)とは子供を獲って食らった悪鬼が、最愛の我が子を釈迦に隠されたのをきっかけに改心した女神だが、「あなたの為に」を枕詞に虐待を繰り返す院長は、聖女と鬼母の二面性を持ってると見て間違いない。
子供たちが密告し合う監視体制
島の孤児院では密告が奨励されている。というのも、子供たちには一位から最下位まで序列が付けられている。ランクによって部屋割りや食事をとる席まで差別されるときたら、仲間の秘密をコソコソ嗅ぎ回り、告げ口で点数稼ぎをする子が出ても仕方ない。
罰を回避したければイケニエを差し出す。別の誰かに嫌な役目を押し付ける。
明日は我が身ということわざがあるが、予定された罰を明日以降に先送りできるなら、仲間を売る人間は意外と多い。アイツが今お仕置きを受けているなら、少なくとも自分だけは免れると安心するのだ。
……が、自分可愛さに売り飛ばした仲間が残忍なお仕置きを受けるのを目の当たりにすることで、神経は確実にすり減っていく。
お仕置きをただ見せるだけで「いい子」の既定路線を逸脱しない抑止力が働くなら、職員も手間が省けて効率的。
実の所、これは虐待が日常化した家庭でよく見られる傾向だ。
たとえば父親が子供を虐待する家庭において、母親ないし他の兄弟が、積極的に被害者の落ち度を密告することがある。
彼らは父親の共犯、あるいは従犯と見なされ世間に叩かれるが、本当に好き好んで虐待に加担しているのは一握り(と思いたい)。
保身に回るのが罪というなら返す言葉もないが、セリグマンの犬よろしく虐待を見せられるだけで学習性無力感が伝染するなら、「自分だけは助かりたい」と思ってしまっても非難はできまい。
名前だけはほのぼの?恐ろしすぎる体罰の数々
島の孤児院では動物の名前と行動様式にちなんだお仕置きが行われている。
お仕置きというと軽く聞こえるが、ぶっちゃけ拷問である。体罰ってレベルでもない。
「飛び回る夜蛾の刑」
……照射責め。目に直接強い照明をあてられ続けて脳までやられる。
「波間のアザラシの刑」
……手足を固定され、口が浸からないギリギリの深さの浴槽に入れられる。中は氷水。体温が延々奪われる水牢。
以上、お仕置きリストのごく一部を抜粋したが、正直これは序の口で、もっとグロくてエグいのがたくさんある。
波間のアザラシの刑と聞いて、もっとほのぼのしたのを想像した読者はショックを受けたかもしれない。
このお仕置きが狡猾なのは、やってることは拷問以外の何物でもないのに、動物にたとえることでさも「子供向けにアレンジしましたよ感」をだしている点。
いやあね拷問なんかじゃありませんよ、お茶目なお仕置きですよと、体罰を正当化する欺瞞を感じる。
小説家の恩田陸は、「名付けられることで初めて問題として認識される」と書いた。
実際ストーカーやDV、モラハラパワハラマタハラなどは、名前が付くことによって初めて「よくあること」から防止すべき事件へと昇格したのだ。
ならば逆もしかりで、やってることがいかに残酷で痛みを伴おうが、ほのぼのした名前にごまかされ「犯罪」と認識できないこともあるのではないか?
まして相手は子供、悪知恵にたけた大人なら拷問や虐待を「お仕置き」と偽り、丸め込むのはわけないのである。
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