何度も読み返した小説。
ふと、「この小説は主人公に共感せずに読めたら幸せかも?」と考えてしまった。
もし、主人公に共感したら・・・仕方ない、物語の海に溺れよう。
甘酸っぱい、あるいは暑苦しい「青春」があるわけでもなく、凄惨ないじめもない。
キラキラした高校生活を送るわけでもなく、周りを気にせず「オタク」にもなりきれない女子高生が主人公の物語だ。
こんな人におすすめ!
- 「青春」や「仲間」という言葉が、ちょっと苦手
- 「この主人公、全然共感できないわ」と安心してみたい人
- かといって、周りの目を気にしない「オタク」にもなりきれない
- 「誰かといるさびしさ」を味わうくらいなら、「ひとりでいるさびしさ」を選ぶ
あらすじ・内容紹介
主人公ハツは、高校1年生の女子。
中学からの友人、絹代(きぬよ)は、ちゃんと「仲良しグループ」を作り、高校生活を「エンジョイ」しようと必死。
一方、ハツはクラスメイトになじむ気はさらさらない。
孤立したハツを絹代は気にかけてはくれるが、ことごとくはねのける。
昼休み、グループ学習の自由な班分けなど、確かに「一人」は息苦しいのだけれど、無理に仲間に合わせるつらさもハツは知ってしまっているからだ。
ある日のグループ学習、班分けにあぶれた者どうしで、ハツの隣に座ったのは、オタクの「にな川」。
彼が、熱心に読んでいるのは女性ファッション誌。
「いやいや、よく学校で、女性ファッション誌を堂々と広げられるな」とあきれながらも、興味本位で雑誌をのぞき込む。
「この人に会ったことがある」と、雑誌の中で微笑む、あるモデルを指さすと、にな川が食いついた!
そのモデルこそ、にな川の「推し」、オリチャンだったのだ。
「オリチャンに会った人」というきっかけで、にな川の自宅に招かれるハツ。
彼女が見せられたものは、オリチャンのおびただしいコレクション…。
ハツの醒めた目に、キャピキャピした絹代やオタクまっしぐらのにな川は、どう映っているのか。
『蹴りたい背中』の感想・特徴(ネタバレなし)
殴られた!“幼稚な人としゃべるのがつらい”発言
「幼稚な人としゃべるのがつらい」
再読してがつんと殴られたハツの言葉だ。
「それは”人見知りをしてる”んじゃなくて、”人を選んでる”んだよね。」(中略)
「で。私、人間の趣味いい方だから、幼稚な人としゃべるのはつらい。」
うわ。
自分が他人に合わせるのが苦手なくせに、「自分で孤独を選んだ」ことにしておきたい。
「友人が少ない、かわいそうな人」と思われるのは耐えられない。
が、少なくとも、自分の意志で「友人を選」んだならば、「かわいそうな人」ではない、はず。
なんて見栄っ張り。
ただ、彼女の気持ちがわかってしまう。
必死で虚勢を張っているのに、押し込めたはずの本音を引っこ抜かれた気分になった。
また、ハツは自らを「人間の趣味がいい方」と豪語するだけあり、絹代がつるんでいる仲間への描写も容赦ない。
みんな体型も顔の濃さもばらばらで、いろんな雑草を寄せ集めて束にしたみたい。
いや、全員顔が濃いグループとか、それはそれで変でしょう。
という揚げ足取りは置いといて。
「雑草の寄せ集め」という表現を選ぶあたり、友人を「選んで」いるプライドの高さが、にじみ出て面白い。
そんな自分の殻にこもるハツに対しても、絹代は「親切」だ。
「生物の時間はハツをほったらかしにしてしまったけれど、これからは仲間に入れてあげる。」
と、「雑草の寄せ集め」仲間へ、ハツを招き入れる。
が、その申し出を拒否するハツ。
たいして、楽しくなさそうな「雑草の寄せ集め」に、気を使って疲れるだけなんて御免だし、仲間に入れて「あげる」という言い方をされたら、そんな惨めじゃないって反発したくもなるし…。
あぁ、この絹代のセリフに引っかからない人は幸せに暮らせる多数派だと思う。
さらに、
「私、男女混合グループって憧れてたんだよね~。」
という絹代に、
「確かに男女混合グループだけど、どれが女でどれが男か分からない。」
と、「雑草の寄せ集め」たちの似顔絵まで描きだすハツ。
あぁ、ハツの辛辣な言葉の選び方が癖になりそう。
これが綿矢りさ作品から抜け出せない理由なのだ。
大人になって改めて読み返すと、「楽しい高校生活」に向けて努力する絹代がとても健気に見える。
自分にウソをつけない、「仲間に入れて」もらいたくない、と一人を貫くハツも憎めないのだけど。
なんだか、「私が友人を選ぶ立場よ」を貫く女子高生はきっと10年後、「彼氏は私が選ぶ立場よ」というOLになりそうだ。
『勝手にふるえてろ』原作小説あらすじと感想【普通の恋愛じゃ物足りないあなたへ】さびしさは、鳴りっぱなし。
さびしさは鳴る。
という出だし。
あれ、最初からこんなフレーズだなんて、ハツはつよがっていても、さびしがりやではないか。
でも人のいる笑い声ばかりの向こう岸も、またそれはそれで息苦しいのを、私は知っている。
いつ読んでも、ぐさっと刺さる。
「一人で感じるさびしさ」より、「人と一緒にいて感じるさびしさ」のほうが、やるせないから。
にな川の自宅に招かれたシーンも、なんだかいたたまれなかった。
あの人オリチャンていうんだ。ふうん。別に興味ないけど。どうして今あの人の話が出てくるんだろう。
と、ハツを自宅に招いたにな川は、ひたすらオリチャンの話ばかり。
ここは完全なる独り用のお部屋だ。空気が部屋の持ち主一人分しかなくて、息苦しい。
にな川の部屋に招かれたものの、居心地の悪さが伝わってくる。
別ににな川に惚れたはれたではなく、なんかこう、本来いてはいけない場所にいるような、居心地の悪さや、疎外感が伝わってくる。
「さびしい」という言葉は使わないものの、「さびしさは、鳴る」。
さらに、私が初めて読んだときに刺さったのが、ハツが統率のとれたバレーボール部を眺めているシーン。
ああいう団体競技はもう無理だ、きっと身体が受け付けない。一人で戦える陸上を知ってしまった今、仲間とのアイコンタクトはむず痒い。
何度読んでも、ここのセリフが好き。
そう、個人戦なら他人じゃなくて、結果を出すことだけに意識を向けていればいい。
そもそも、「仲間」とうまくやるのも苦手だし、団体競技は「自分の頑張り」が結果に直結しない。
ハツのような性格なら、「仲間」と頑張って結果を出したとしても、たぶん「仲間」と同じ温度で喜んだりはしゃいだりすることも、しんどそう。
さびしさは鳴る、鳴り続ける。
でも、もう、一人でしか戦えない。
女性が主人公、でも、男性的な衝動
「さびしさ」とは、関係ないけれど。
綿矢りさの小説に出てくる主人公は、女性であっても、言動がどこか男性的だと感じる。
ハツもそう。
にな川って迷惑そうな表情がすごく似合う。
ハツの着眼点は、実に独特だ。
しかし、「迷惑そうな表情」にぞくっとくるのは、ちょっとわかる。
で、ぞくっときたら、さらに衝動が湧き上がる…。
この、もの哀しく丸まった、無防備な背中を蹴りたい。
痛がるにな川を見たい。
彼の背中で人知れず青く内出血している痣を想像すると愛しくって、さらに指で押してみたくなった。乱暴な欲望はとどまらない。
わかる、いやわからないことにしておく。
「気になるあの子をめちゃめちゃにしたい」気持ちじゃないけれど。
恋愛感情が湧く、湧かないの、はるか手前の段階で、「相手の世界をちょっと、壊してみたい」という衝動。
『蹴りたい背中』とは、よくつけたタイトルだ。
そして私には、そんな彼が、たまらないのだった。もっと叱られればいい。もっとみじめになればいい。
あぁぞくぞくするねぇ。
これはにな川が、自分(と、想像上のオリチャン)の世界に閉じこもっているから、なおさらその閉じた世界を「蹴り」たくなりそう。
意識が向かう先がオリチャンか自分自身かの違いで、ハツも自分の世界に閉じこもってはいるけれど…。
この衝動は、同時期に芥川賞を受賞した、金原ひとみの『蛇にピアス』と対照的だと感じた。
『蛇にピアス』は、体にピアスの穴をあけタトゥーを入れる女の子を主人公とした「自分の身体が破壊される話」で、一方、本書は「他人の世界を、自分が壊したくなる話」だ。
(何も「彫りたい背中」と「蹴りたい背中」とは言わないけれど。)
まとめ
ここまで書いていて気付いたこと。
やっぱりこれは、主人公に共感できないほうが幸せな小説だ。
太宰治『人間失格』ではないが。
ではもし、読んでみて「これは私だ!」と気づいてしまったら?
どうか自己責任で、お楽しみください。
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