立ち入り禁止の場所に、憧れたことはありますか?
ちょっとだけでいい。
この柵を飛び越えられたら。
禁じられた先には、いったい何があるのだろう。
そう思ったことはありませんか?
これは、妖しげな沼に魅了された幼児の物語です。
こんな人におすすめ!
- 幻想的な世界へ逃避したい人
- 子供のころの繊細な心を取り戻したい人
- 自然の原風景や、美しい情景に触れてみたい人
あらすじ・内容紹介
夏休みが終わりに近づいた頃です。
幼児は、たったひとりで沼を訪れます。
母親から立ち入るのを禁止されているそこは、梅雨の時期には蛙の鳴き声が聞こえてくることもあり、幼児にとって魅力的な場所でした。
おそるおそる大きな木の幹越しに近づいて覗いてみると、そこで小学生の男の子たちが、沼で度胸試しをしていました。
彼らは沼の向こう岸の、苔と一本の木が生えている島へ渡ろうとしていたのです。
突如、白いワイシャツを着た小父(おじ)さんが現れると、小学生たちは走って逃げてゆきます。
小父さんは、幼児を沼の向こうの島へ渡らせてくれると言いました。
なぜか怖くなった幼児は、小父さんをよそに走って逃げてしまいます。
帰りに、沼に行ったことを母親に強くとがめられた幼児は、かたくなに口をつぐんで、詳しく答えようとはしませんでした。
父親に対して感情的な母親を憐れみ、自分に対して無関心な父親に嫌気がさした幼児は、真夜中に部屋を抜け出し、どこかにいるはずの「小父ちゃん」を探して、沼へ向かいますが…。
沼に魅了された幼児の心理を、端正に描いた短編です。
『沼』の感想・特徴(ネタバレなし)
徹底された匿名性
主人公の幼児、「僕(大人からは坊やと呼ばれています)」をはじめ、登場人物には、誰一人として固有名詞が出てきません。
彼の両親はもちろんのこと、白いワイシャツを着た小父さん、4、5人ほどの小学生たちにも徹底されています。
ある苗字や名前が出てくるときに、身近な人を思い浮かべてしまうことはありませんか?
とてもではありませんが、登場人物たちに感情移入しづらいですよね。
名前の不便性をうまく排除して、物語の世界に深く入ってもらえるように工夫しているのです。
すぐそばに沼があるような描写
昼まは鉄道草が咲いていたのに、今は月見草が首を揃えて子供を待っていた。
沼は月の光に照らされて、蒼ざめた、冷たそうな水を湛えていた。
昼間に生い茂っていた鉄道草が息をひそめ、代わりに月見草が鬱蒼と生い茂っている光景が、目に見えてくるようです。
沼のひんやりとした水の質感も、触れていないのに伝わってきます。
鉄道草とは、ヒメジョオンのことですね。昼間の情景とは違い、夜の沼は神秘的です。
作家は沼に浮かぶゴミでさえ、金色に輝く美しいものとして描写しています。
太陽が照りつけるのに対して、月は細い光をじっくりと照らします。
昼間の光では、汚いごみも浮草も浮き彫りになってしまいますが、夜の光は一部分だけを照らすので、光が当たった部分だけが輝いて見えるのです。
幼児には、沼の中に妖精が住んでいるように見えました。
幻想的な情景描写は、時に読者に生々しい錯覚を起こさせます。
あなたにも、こんな場所を見かけた経験はありませんでしたか。
子供のころに、友達と作り上げた秘密基地。
立ち入り禁止の看板を潜り抜けた先にある、見晴らしのいい展望台。
鍵がかけられた学校の屋上。
危険と言われつつも、つい覗いてみたくなるような場所がよみがえってくることでしょう。
幼児は、夜の沼の底知れぬ魅力に惑わされたのです。
本当に怖かったのは、誰?
幼児は、父親のことを「とても怖い存在」として記憶しています。
彼の両親は、些細なことで喧嘩をしています。
たいていは幼児のことです。
父親の口からは、「離婚」の文字も飛び出しています。
その姿を、幼児はふすまの陰越しにじっと見つめているのです。
自分のせいで両親が争うことを、彼は口に出さずとも理解しているのです。
いかに幼児が賢く、大人が愚かなのかがよく分かります。
お父ちゃんはちっとも僕を大事にしてくれない、と障子の陰で、子供は考えた。
あれはきっと僕のお父ちゃんじゃないんだ。
自分の思い通りに動いてくれず、何も買ってきてくれない。
顔はちっとも似ていないし、お酒を飲むにかかわらず怒り出す、怖い存在。
幼児は父親のことを、そう解釈しています。
その一方で、どこの誰かも分からない「小父ちゃん」のことを、幼児は強く信頼しているようです。
ひょっとしたらあれが本当のお父ちゃんなのかもしれない。
だからちっとも逃げ出すことなんかなかったんだ。
愛想よく微笑みかけ、向こうの島に渡してくれると言ってくれた優しい小父ちゃんを、幼児が信頼してしまうのも無理はありません。
しかし、彼は本当に優しかったのでしょうか?
島から伸びて来ている枝を地面の方にたれ下げた痕跡が、夜の沼にはありました。
その枝は幼児が見たときには、手の届かない場所にあったのです。
まるで、誰かが沼の方へ誘っているかのようですね。
まとめ
本書は、含蓄がある短編です。
幼少期の思い出に留まらず、子供の目の前で口論する大人の愚かさ、妖しくも美しい自然の幻想的な姿を、丁寧な文体で分かりやすく描いています。
幼児は、無事に沼に辿りつけたのでしょうか?
望んでいた通り、木が生えている島まで行って、大人になることができたのでしょうか。
賛否両論ありそうな結末である、ということだけ言っておきます。
登場人物が全員匿名であることを生かして、自分が幼児だったらどう行動するか、両親の立場だったらどう説明するか。
この結末で良かったのか、話し合ってみるのも良いかもしれませんね。
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