あいみょんの最新シングル「愛を知るまでは/桜が降る夜は」がリリースされた。
あいみょんの楽曲には「夜」とつくタイトルが多い。
大概、夜は人には見せられない姿が晒される時間でもある。
時に繊細な感情が顕となり、時に官能的な危ない雰囲気が漂う。
今回はあいみょんが描く官能表現について、彼女が影響を受けた本を元に探っていく。
目次
溶かして 燃やして 潤してあげたい…あいみょんの歌詞から滲み出る感性
あいみょんの歌詞は怖い。
抽象的な表現とは裏腹に、願望や感情は目を伏せたくなるほど正直でドキッとする。
どこまでが、何のことを指しているのかとても難解で、考えれば考えるほど、答えが遠くなっていくような気がしてきて、泥濘のようだ。
足を捕われ、足掻いているうちにどんどん嵌っていってしまう。
彼女の魅力の一つは官能的な表現にあるだろう。
タワーレコード限定シングルであり、彼女が初めてリリースした音源「貴方解剖純愛歌 ~死ね~」に収録されている「いいことしましょ」にはこんな描写がある。
あなたが部屋に来る時は
母がきまって顔をしかめる
大丈夫心配ないわ
静かにしてるから
主人公も、”あなた”も、そして母も部屋で何が行われているのか分かっている。
巧みに描かれた3人の距離感が、危なさを物語っている。
この楽曲は官能小説に影響を受けて書かれた。
あいみょんは、官能小説の比喩表現からインスピレーションを受け、楽曲を作っているという。
平和と狂気がギリギリのバランスで成り立つ「満月の夜なら」
エロさを感じさせる楽曲はいくつかあるが、一際踏み込んだ楽曲は「満月の夜なら」と「マシマロ」だろう。
「満月の夜なら」は甘美なメロディーが際立つ、スウィートでちょっとスパイスの効いたラブソングだ。
粘着質で密接度の高い歌詞が、爽やかなサウンドで包まれている。
奥ゆかしい日本語の面白さや、研ぎ澄まされた言語感覚が光っている。
君のアイスクリームが溶けた
口の中でほんのりほどけた
甘い 甘い 甘い ぬるくなったバニラ
上記は楽曲の始まりのフレーズである。
幼子や、意味を追求しない人の目には平和的なワンシーンに映るだろう。
ストレートに受け取ると、週末、よく晴れた公園でアイスを食べている光景にすら思えるが、ひねくれた大人にはそんな平和とは対照的なカオスティックの予兆を感じさせる。
平和と狂気がギリギリのバランスで成り立っているのだ。
ディープな世界 夜は魔界
暗いルームではルールなんてない
君のさりげない相槌だって
僕は見逃さない
そのバランスは2番のAメロあたりから崩壊を始める。
ステップでもするかのように、軽快な押韻から、主人公の高揚感が伝わってくる。
溶かして 燃やして 潤してあげたい
次のステップは言わずもがな分かるでしょう
君とダンス 2人のチャンス
夜は長いから
繋いでいて 焦らないでいて
サビの状況は、皆まで言うことが無粋なほど端的に表現されている。
それでもエロくなりすぎず、どこかユーモアが感じられる歌詞で、あいみょんの感性から滲み出た言語感覚にやられる。
無防備な男女の姿を想像させる「マシマロ」
「マシマロ」は最新アルバム「おいしいパスタがあると聞いて」に収録されている。
同曲名を持つ奥田民生へのリスペクトを感じさせる楽曲観で、土くさい、王道的なギターロックに仕上がっている。
目の前にあるマシマロの丘
チョコレイトで汚したい
甘く柔らかいお菓子が引用された歌詞は無防備な男女の姿を想像させ、生唾を飲む。
なまぬるい空気を吸い込んで
見たことのない聖地を泳ぐ 泳ぐ
楽曲の中心であるサビは、歌詞で描かれている物語でもまさに”本番中”でドラムのタムが合図となり幕を開ける。
サウンド、楽曲構成、歌詞とどの角度からも、生々しい空気感を伝わってくる。
神崎京介「滴」から探る官能表現の魅力
奥行き感のある歌詞を得意とするあいみょんが初めて手に取った官能小説は神崎京介の『滴』だ。
本書は9作の物語がまとめられた短編集である。
ストーリーの軸はどの物語も共通して性行為でありながら、様々なアプローチで迫っており、官能小説に慣れていない人にも読みやすい小説になっている。
中盤にある「わたしの事情」は主人公の性行為を他人に話している体裁で描かれた。
細部までじっくりと舐めるように、いわば読者がその主人公になれる主観的な物語が自然と増えていく中で、「わたしの事情」は登場人物たちの情事を覗き見しているような不思議な引力を持つ。
「滴」は物語の展開も大きな魅力であるが、今回はその性行為の表現の仕方にフォーカスする。
涼子の尖った乳首に触れた。乳首はほんのわずかに震えただけだったが、それに共鳴するように乳房のやわらかい曲線が細かく揺れた。
上記は本書に収録されている「嗚咽」の書き出しである。
ここを掻い摘んだだけでも、官能的な面白さが端的に現れているように思う。
乱暴な言い方をすれば、厳密には乳首は尖ってはいない。
「尖った」というのは、刺さったら痛みを伴うような先端のことだ。
しかし、「尖った乳首」がどういった形なのかは理解ができる。
この絶妙な矛盾が主人公の高ぶりを感じさせる。
決して間違っている表現ではない。確かに伝わる表現である。
「何かの押しボタンみたいな乳首」と書かれるより「尖った乳首」の方が明確かつ、ユーモアを持って伝わってくる。
そういった比喩的な面白さに加えて、カメラワークの面白さもある。
別の章では
湯煙が美那子の肌を包んでいるように見えました。背を反らすと、はりついていた滴が、お尻のはざまに白い条となって流れ落ちていきました。
などがあり、体全体を見ていたかと思えば、視点は一点に変わる。
時にはマクロレンズのように細部の細部までフォーカスした視点に変わることによって、文章が一気に映像的になる。
また、漢字の違いで表現の幅を広げているのも独自性があり、奥深い。
自身でモノを指す時は「硬い」であるのに対し、受け手側はここぞという一度だけ「剛い」と表現されていた。
漢字の変換が、細かい感情の変化を伝える。
日本語と言うのは官能小説とかなり相性が良いのかもしれない。
腰を突いた。
恥骨同士がぶつかった。
陰部が痺れているせいか痛みはなかった。それどころか痛みは鈍い快楽につながった。
ペニスの動脈が強まった。
まずい、と思った。
絶頂の兆しだ。
短文が繰り返されることで語感にスピード感が生まれ、それに付随して行為中のスリルや切迫感が感じられる。
官能小説には様々な表現技法が盛り込まれていることが分かる。
永田守弘「官能小説用語表現辞典」に掲載されている豊潤で多彩な言い回し
永田守弘によって書かれた「官能小説用語表現辞典」は、2005年以前の数年間に発行された官能小説663冊から、”官能小説ならでは”の用語や表現を集めた用語辞典である。
ユーモアと知性に満ちていて流し読みをしているだけでもかなり惹き込まれてしまう。
あいみょんのおすすめの一冊でもある。
マシマロであり、アイスクリームでもある「乳房」の一例を取り上げることにする。
食べ物をモチーフにしたものであれば、定番のものから”グレープフルーツ”や”コンニャク・ゼリー”まで幅広くある。
“仲たがいをした双子の姉妹”という表し方は中世ヨーロッパに広まっていそうな小洒落た言い回しだと思った。
さらに尖った表現であれば、”肉メロン”、”はちきれそうな肉球”、”砲弾”、”肉の嵩ばり”などと、固定概念に囚われない自由な表現が多数掲載されている。
「声」の表現は登場人物たちが思考を巡らせて考えているような、その逆に何も考えられず直感で発言しているような、狂気が伝わってくる。
掲載されている用例とともに紹介する。
「ああ……搭上さん……とても、すてきよ……お腰が、とろけてしまいそう」
「き。ききき」
奇声をあげて、真美子の全身が弓なりに硬直し、またガクガクと弛緩すると、今度は彼女が祐介の上に、ぐったりと倒れ込んできた。
“お腰が、とろけてしまいそう”は、比較的定番の”溶ける”や”燃える”とは若干ニュアンスが違うが、それに近いポピュラリティーがある。
その一方で後者はあまりにも異端だ。
食事の好みや字の書き方に個性が出るようにあるように、果て方にも個性があることを痛感させられた。
文庫本化されるにあたって新たに追加されている「絶頂表現」では、ディープな世界はさらに広がりを見せる。
“操り糸の切れた人形のように”
“花芯が脈打つ”
“けものが絶息するような唸り声”
上記の3つが全て同じ状態を表していることに日本語の面白ささえ感じる。
それほどに官能表現は自由で、だからこそ絶対がない。
「官能小説用語表現辞典」は全編に渡って果てしない表現の冒険が記録されている。
警察の抑制が官能表現の進化に繋がった
そもそも官能小説の始まりとはなんだろう。本書にはその歴史が記されている。
発端は1945年の終戦だ。終戦により、それまでされていた言論統制は解除された。
戦時中も官能的なものが無かったわけではないが、厳しいチェックによって作品はごく限られたものしかなく、内容も満足できるものではなかったようだ。
終戦で解除されたといえども、それはあくまでも戦時中と比べて解放されたというだけで、思うほど自由になったわけではなかった。
官能小説の冬はなかなか終わりを迎えない。
さらに官憲の体制が形づくられていくと共に、一度は廃止された「エロチェック」が再び入るようになってしまう。
しかし、その基準は曖昧なものだった。
たとえば、男と女がいるシーンで「挿入」や「入れた」という言葉を使うと警察から呼び出しがかかってしまう。
「体を重ねた」という表現はそれを避けるために生まれた。
読んでいれば明らかに「入れて」いるのは確実だが、直接は書かれていないため「入れたかどうか確実ではない」というのが警察の解釈だったそうだ。
そのため、作家は官能シーンを描く際には直接的な表現を避け、なおかつ読者にはそのシーンが分かってもらえるように、苦心しながら作品を書き上げていった。
作家は警察に呼び出されることを嫌がり、表現力の錬磨を重ねていく。
警察による抑制が、結果的に官能表現の底上げをすることに繋がったのだ。
その歴史を知ると、本書の表現やあいみょんの楽曲、「滴」などで描かれている時に回りくどい表現はしっかり意味のあるものだと気付き、より深さを感じられるだろう。
本書の解説を担当した重松清は解説にてこう綴っている。
セックスを物語の主軸に置くかぎり、あらゆる官能小説は、突き詰めると「よくある話」にならざるをえない。
「感動」などという曖昧なものではなく、興奮するかどうか、勃起でもなんでもいいのだが、読者が身体的に反応するかどうかで、作品の成否が問われる。言い訳抜き、理屈抜き、看板もなにも通用しない真剣勝負である。
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