突然ですが、一つ質問があります。
生者と死者。
その違いは何なのでしょう。
記憶の中にいる死者と、オリジナルの死者。
どこが異なっているのでしょうか。
今回取り上げるのは、『やがて海へと届く』。
東北旅行の最中に大震災に襲われた著者の記念碑的傑作です。
あらすじ・内容紹介
主人公の真奈と友人のすみれは、共に食事をしたり会話をしたりする仲でした。
しかし、東北で大震災が起こったあの日を境に、すみれは行方不明になってしまいます。
彼女の死を受け入れることができない真奈は、恋人の遠野くんに諭されます。
彼は「すみれは歩いている」のではないかと考え、前を向いて歩むことを薦めるのです。
これは、死者の幻想と生者の現実が交錯する、追憶の物語です。
やがて海へと届くの感想(ネタバレ)
相反する考え
「湖谷ももういい加減、すみれのためとかすみれに悪いとか、
あいつを理由に生き方を変えるのをやめたほうがいい。」-p98
すみれの死をなかったことにできない真奈は、遠野くんの突き放したような物言いにいら立ちます。
彼女の憎悪は「黒い油」となって、身体から滲み出し、とうとう爆発します。
「生まれてきて、育つ間、誰だって頭の中はひとりでしょう?
それなのに大人になっても一人のまま、死んだあとも隔絶された苦しみの中に置き去りにされて、
あ、あんなむごい死に方すら、たった一人で背負うものだなんて言われたら、あの子は一体何のために生まれてきたの!」-p100
しまいには真奈は、「惨死を越える力をください。どうかどうか、それで人の魂は砕けないのだと信じさせてくれるものをください。」と祈ります。
ネガポジのような、幻想の世界と現実の世界
この小説の奇数の章は、真奈の現実の世界を表現しています。
偶数の章は、うってかわって幻想が入り混じった世界です。
グロテスクな風景に感じてしまう方もいるかもしれません。
しかし、震災時の悲惨な状況を表現したという点において、注目せずにはいられない章でもあります。
圧力に負けて、つないだ手があっけなくちぎれた。
あ、と思って目を合わせる。
男の体が黒い波に呑まれて見えなくなった。(略)
そうだこの人はある日、果物のように私の人生からもぎ取られた。-p82
奇数の章と偶数の章は、互いに補完し合う関係になっています。
例えば、偶数の章で出てきた青白い肌をした女や、なきぼくろの男と年上の目が鋭い男の正体は、偶数の章で判明します。
主人公の肉体が土くれや、紅い花などに変化してしまうのも偶数の章です。
歩き続ける主人公を、辿ってみてください。
まとめ
この小説は、作者の実体験に基づいて描かれています。
ルポルタージュ「暗い夜、星を数えて―3・11被災鉄道からの脱出」と合わせて読むと、
震災の悲惨さがより実感できることでしょう。
文庫版のあとがきで、東えりかさんは「五年かかって生まれた過酷な体験の結晶」だと表現しています。
被災という体験が、皮肉にも著者を強くする糧になったのです。
死者と生者の関係とはなにか。
その答えがここにあります。
主題歌:Ivy to fraudulent game/夢想家
さて、今回の選曲はIvy to fraudulent game(アイヴィー・トゥ・フロウジェレント・ゲーム)の夢想家です。
まだ今も夢を見てる
鈍間な夢想家の僕は
白日に曝されても
醒める気配さえ無い-(作詞:福島由也)
現実に目を背け、ひたすら眠り続ける夢想家。
主人公の真奈と重なります。
「追い縋る白昼夢」とは現実のことです。
亡くなったすみれのことを指します。
いつまでも淡々と眠り続ける夢想家が、目を醒ました時。
見えるのは朝日なのでしょうか。
それとも…。
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