とある珈琲店にて出会った1冊。
古風な本棚の中、ひときわ深い色の背表紙に目を惹かれました。
あらすじ・内容紹介
昭和の初め、人文地理学の研究者、秋野は南九州の遅島へ赴く。
かつて修験道の霊山があったその島は、豊かで変化にとんだ自然の中に、無残にかき消された人びとの祈りの跡を抱いて、彼の心を捉えて離さない。
そして、地図に残された「海うそ」ということば・・・・・・。
五十年後、不思議な縁に導かれ、秋野は再び島を訪れる――。いくつもの喪失を越えて、秋野が辿り着いた真実とは。
自然にのみこまれるような読書体験
遅島は、梨木香歩の手で生み出された架空の島です。
しかし、濃厚な緑、肌にまとわりつく湿気、経年により色を深めた家屋。
秋野と共に島内を歩いているような錯覚に陥るほど、丁寧でリアリティ溢れる筆致で描かれています。
獣道のような道に入り、小川を越え、滝の横を通った。この辺りはずいぶん暗い。見上げれば、隙間なく天を埋め尽くしたかのように見える樹冠の其処彼処に僅か光が漏れ見える。
島の青年を案内人に、遺跡を目指して霊山へ足を踏み入れる旅の描写は、冒険記さながら。
2人の苔を踏みしめる足音が聞こえてくるようです。
彼らと共に深緑を踏み、洞窟の冷気を感じ、山頂に吹く風を浴びる時間を過ごしてみて下さい。
喪失≠リセット
過去に廃仏毀釈を受けて大きな喪失を蒙った遅島。
秋野が島を訪れたのは、大自然がその遺構を抱き、地名は名残を留めるものの、真相はもはや伝え話となっている頃でした。
そして五十年後。
遅島は、2度目の大きな喪失を蒙ることとなります。
動植物の住処、過去の信仰の象徴、遺跡の宝庫、人々の心の寄る辺であった大自然に開発の手が入ることになるのです。
また、紡がれていた暮らしや会話を知る者は、長い歳月と戦火を経て数をほとんど残していません。
変わり果てた山々の姿に狼狽する秋野の様子は、居た堪れないほどです。
変わりゆく島の姿と、変わらずに在る「海うそ」。
それらを前に、彼は次第に落胆や怒りを浄化させていきます。
若い頃は感激や昂奮が自分を貫き駆け抜けていくようであったが、今は静かな感慨となって自分の内部に折り畳まれていく。
喪失とは、私のなかに降り積もる時間が、増えていくことなのだった。
共に島中を歩き、胸いっぱいに緑と湿気を吸い込むような体験をした読み手にとっても、後半の描写は苦しいものがあります。
歴史が軽視され、利便性やエンターテイメント性ばかりが選択されていく様が、私は特に応えました。
しかし島に限らず、どんな事象であっても、喪失を経て形を創り、循環していくのが常なのだと、私は私なりに納得することが出来ました。
今私がいるこの場所でも、若者が言葉を交わし合ったのだろうか、食卓を囲む家族がいたのだろうか。
永遠という言葉は少々嘘くさいですが、形を残さず、しかし一貫している、永遠に近しいようなものは在り得るのかもしれないと、この作品を読んで感じました。
主題歌:さだまさし/天然色の化石
さだまさし「天然色の化石」
「海うそ」は、単に環境破壊を嘆き糾弾することがテーマではありません。
この楽曲も同様のメッセージを投げかけているように感じています。
もしも僕が化石になってみつかった時に 僕の肌が黄色だったことに気づくだろうか
誰が気づいてくれるだろうか せつない生命の営みについて
挿入歌としてではなくエンドロールで流したくなるような、壮大なメロディが素敵です。
ぜひ、読み終わったあとに。
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