野心もない、恋人もいない。くだらない飲み会や億劫なバイトしかない毎日。
生きていくだけでも気だるくなりそうな日々を、かつて抱いた絶望や悲しみの名残を抱えながら生きていく。
きっと誰もが1度はそんな鬱屈とした日々を過ごした時期があるだろう。
もしかしたら、今も似たような日々を過ごしているかもしれない。
そんなもどかしい日々に、そっと寄り添う小説があってもいい。
これから紹介する作品は、私たちに寄り添う小説だ。
毎日が気だるくても、しっかりと丁寧に生きようと心に誓わせてくれる小説だ。
こんな人におすすめ!
- 毎日になんとなく満足ができていない人
- 自分に対して「このままでいいのか」と漠然と思っている人
- 「やりたいこと」と「現実」が食い違ってしまっている人
あらすじ・内容紹介
就職も決まり、大学卒業を間近に控えている主人公ホリガイは、卒業論文の準備や飲み会、バイトに行くだけの気だるい日々を送っていた。
ある日参加したゼミの飲み会で、ひょんなことから友人・河北(かわきた)の恋人であるアスミを介抱することになってしまう。
アスミから彼女自身の過去や河北のことを聞かされるものの、ホリガイは介抱したことを友人のオカノに愚痴ったりバイト先で密かに恋するなど、相変わらずの日々を送る。
そして一方でホリガイは河北から、授業のノートを代わりにとるように頼まれるが、そのことがきっかけで同級生のイノギさんと出会うことになる。
イノギさんとの交流を深めるなかで、知り合いの死や同級生が抱く野心、自分がかつて抱いた不安や恐怖に触れながらも、漫然と日々を過ごすホリガイには、ゆっくりと、しかし確実に、社会に潜む「悪意」が近づいていた。
『君は永遠にそいつらより若い』の感想・特徴(ネタバレなし)
虚しい「日常」のリアリティ
なんとなく過ぎ去っていく虚しい日々を物語にすることは難しいと感じる。
しかし一方で、私たちが過ごしている日々のほとんどは「なんとなく過ぎ去っていく」ものだとも思う。
人によっては虚しいと感じるものだ。
物語には起承転結があるけれど、私たちの人生はいつ終わるのか分からないせいで、たとえ起承転結があったとしても、起も承も転も知りようがない。
だからこそ『君はそいつらより永遠に若い』を読んだとき、この物語はすごいと思った。
虚しいと思えてしまう日々のリアリティを本書の主人公・ホリガイを通じて描いているからだ。
友人といくら話しても、言葉を交わしても、本当に切実な思いはひた隠して、ノッペリとした日々を送る。
そんな日々の断片は、例えば、ホリガイに向けられた友人・河北の台詞に現れる。
「おまえに重要な話はなにひとつしていない」
帰宅への路が分かれる際で、河北は振り返り、能面のような面差しでそう言った。
「知ってるよ」、とわたしは答えた。
友人である河北とホリガイは大学1年生のときからの知り合いだ。
言葉を交わしたのも1度や2度ではないにも関わらず「重要な話はなにひとつしていない」という台詞が向けられる。
そして、そのことをホリガイも知っていた。
生きていれば多かれ少なかれ、あっけなく切れてしまう人間関係が存在する。
学生時代の同級生や、職場、あるいは恋人同士など、多くの時間をともに過ごしたにも関わらず、関係が切れてしまえば「あの日々はなんだったのだろう」と思わずにはいられない、物語にも値しない人生の虚しさ。
この虚しさのリアリティが『君はそいつらより永遠に若い』には充満している。
それも小説という物語の形式で。
これが私が本書に対して「すごい」と率直に思った理由だ。
虚しさの中心の「私」
作品全体を貫く「虚しさ」の原因のひとつは主人公であるホリガイにあるように思える。
それは主人公・ホリガイが醸し出す孤独な雰囲気によるものだろう。
このことについて先んじていってしまえば、もし実社会での日々に虚しさを感じるのであれば、その原因は日々を生きる私たち自身にあることを暗に示している。
だからこそ、読者にとってホリガイは身近な存在に感じられるだろう。
さて、ホリガイの孤独を端的に示しているのは、作中で、処女である自分のことを「不良在庫」と称しているところや「わたしは、自分に会いたいと思う人などこの世にいないだろうと思いながら生きてきたし、今もそうだ」と零す箇所があるためだ。
そして、友人の河北にも「人生をもてあまして」いるといわれる。
ホリガイは孤独であり、ホリガイ自身が自覚的でなくても、どことなく虚しさを抱えている存在なのだ。
ところで、このような虚しさを抱えた人物像は『君はそいつらより永遠に若い』の舞台である2000年代前半、そして1990年代に登場した作品に散見される。
マンガでいえば岡崎京子『リバーズ・エッジ』(1994年)、映画では岩井俊二監督の『リリィ・シュシュのすべて』(2001年)などが挙げられるだろう。
しかしこれらの作品と『君はそいつらより永遠に若い』は間違いなく異なった立ち位置にある。
それは、抱え込んでしまった虚しさの解消の仕方だ。
先の2作品でいえば『リバーズ・エッジ』は性や食という方向に。
『リリィ・シュシュのすべて』は「いじめ」という暴力の方向で解消しようとしてしまう。
もちろん『君はそいつらより永遠に若い』にも、どういう方向性であれ、虚しさや日々の鬱屈をエネルギーに変え、それをリストカットや起業という形で解消しようとしている人物がいる。
一方でホリガイは、自分が抱えているであろう虚しさを、むやみに爆発させたりしない。
酒席でのホリガイの「自動操縦のような態で、ひたすらな相槌とよいしょと全肯定に徹する」という振る舞いは、そのことを示している。
現代でも、おそらく多くの人がホリガイや作中の登場人物に似たような虚しさを知らず知らずのうちに抱えているのだろう。
虚しさを埋める「イイネ!」のために見栄を張っている人がいる気がしてならないのだ。
そのような人たちが極端な例だとしても、いや、極端で目立つからこそ、ホリガイのように、じっと耐えている人が多くいるのだと思う。
そして、多くいると思うからこそ、ホリガイという主人公は読者にとって身近な存在であると思うのだ。
そんなリアルさも、本書の魅力だと私は思う。
虚しいけれど、大切な一日一日のために
しかし、ここでひとつ素朴な疑問を抱いてしまう。
『君はそいつらより永遠に若い』で登場する人物のなかで、リストカットや起業をする人たちとホリガイとでは、いったい何が異なったのだろう。
ホリガイ自身も日々に虚しさを感じていることは間違いないと思う。
例えば、ホリガイに対し友人の河北は「生きることも死ぬことも近くに感じられる俺たちを羨ましがっている」と挑発する。
ホリガイは「羨ましいよ」と返し「実際私は、羨ましがっていたのかもしれない。そうでないと言い切ることも今となってはできない」と述べるのである。
ただし、ホリガイには、手放さなかったことがある。
ホリガイは大学へ入学してから間もなく、ある事件にショックを受けた。
そのショックが、ホリガイに進路を決めさせたのだ。
自分なりに事件と向き合うための進路だった。
そして、その進路のために努力を続けてきたのだ。
手放さなかったのは、その事件に対するショックだ。
忘れることもせず、無理やり解決しようとするわけでもなく、慎重に、堅実に、努力を続けてきたのだ。
嫌なことや悲しいことがあれば、私自身も気晴らしをすることで解消することがある。
だからこそ、日々をどれほど虚しいと思っても、そこにこだわらず、自分にとって本当に切実な問題を見つめ続けたことが、ホリガイとほかの人物を分けた要因であり、本書を通じて私が学べたことなのだと思う。
そんなたくましい心が、不意に到来してくる「悪意」にどんな向き合い方をするのか。
それは本書を読んだ読者だけが知ることができる。
まとめ
日々の虚しさや物足りなさを解消しようと人は極端な方向を目指す。
解消ができないと思うと自分のなかに鬱屈を溜めがちだ。
でも、きっと、選択肢はそれだけではないのだ。
もちろん正解とは限らないけれど、二者択一ではないのだ。
もし、鬱屈を解消しようとしたり、自分のなかに抱え込みそうなときは本書を読んでほしい。
本書で描かれている強くしなやかな魂は、きっと大切なことを教えてくれるはずだ。
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