『君の顔では泣けない』あらすじと感想【入れ替わりで変化していく自分らしさ】

「男女の入れ替わり」をテーマにした作品は数多くある。近年でいえば大ヒット映画『君の名は。』を多くの人は想像するだろう。

これから紹介する『君の顔では泣けない』も「男女の入れ替わり」をテーマにした作品だ。

さて、ここで想像してみてほしい。男性は女性の、女性は男性の身体に、ある日突然入れ替わってしまい、元の身体に戻れなくなってしまったとしたら──。そのことで人間関係だけではなく「自分らしさ」も変化していくとしたら──。

本書は「男女の入れ替わり」を単にエンタメ化したものではない。「私」という存在の「移ろいやすさ」と「かけがえのなさ」を驚くべき繊細さで描いているのだ。

本文では、この2点の魅力を紹介していく。しかし、本書に宿る繊細さだけはとても紹介することはできない。私が本書を読んでみることを強く勧める理由はここにある。

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こんな人におすすめ!

  • 「自分らしさ」について考えたい人
  • エンタメではない「男女の入れ替わり」の物語を読みたい人

あらすじ・内容紹介

坂平陸(さかひらりく)は高校一年生のとき、同級生の水村まなみ(みずむらまなみ)と身体が入れ替わってしまった。いつか元に戻れると信じ、水村として生きていく坂平は、水村の家族・友人関係や彼女の恋人・月宮(つきみや)との関係を維持しようとする。

しかし、戸惑うばかりの坂平は徐々に水村を演じきれなくなり、水村が築いてきた人間関係を壊してしまうことになる。

そして、元に戻ることではなくお互いに「自分の人生を生きる」ことを決める水村と坂平。

進学や就職という人生の分岐点を水村として経験する坂平だったが、坂平陸の身体に戻ることを諦めきれない。

その一方で坂平陸として飄々と生きる水村に対し苛立ちを募らせる坂平は、水村にある提案をするが──。

『君の顔では泣けない』の感想・特徴(ネタバレなし)

揺れ動く「私」の「当たり前」

何かが変わってしまうことが昔からずっと苦手だ。(…)いずれここまで積み上げてきたものが全て崩れ去って、何もかもが変わってしまうんじゃないかと恐れている

これは坂平が「変化が苦手」という自分の内面を吐露した一文である。

だが、本書は「変化」の連続だ。それは人間関係だけではない。入れ替わりをきっかけに坂平という一人の人間も、ゆるやかに変化していく。

なかでも次のような変化は象徴的だ。

水村に入れ替わった直後の坂平は、部活動の顧問によるセクハラ行為を目の当たりにしても「女でいるというのはやはり大変なんだな」や「俺だったらぶん殴ってやる」と、どこか傍観者のような感慨を抱いていた。

だが、数日が経過し顧問からのセクハラ行為を自らが受けた際、坂平は「駄目だ。気持ちが悪い。吐き気がする」と恐怖心を覚えるようになる。

この変化に、男性読者は「入れ替わったとはいえ、坂平も内面は男性なのだから殴ればいいのに」と違和感を覚えるかもしれない。

しかし、この「違和感」こそ、本書が「私」という存在の「移ろいやすさ」を描いているという意味で優れているのだ

社会のなかで生きるというのは、多かれ少なかれ「~らしさ」のなかで生きるということだ。男女という区分でいえば、椅子に座る際、男性は多少足を開き、女性は足を閉じるといった違いがある。

この動作から分かるように、私たちにはステレオタイプな「~らしさ」という価値観が埋め込まれている。

本書にも

女になって強く感じたこともある。世の中の女の人たちは、可愛いや綺麗を世界から強いられて、そしてあらゆる努力をしている

とある。坂平自身、入れ替わってみなければわからなかったのだろう。

このことを踏まえれば、坂平の振る舞いに男性読者が違和感を覚えるのは無理もない。

むしろ違和感を覚えないことのほうが、無理なのだ。「~らしさ」の網は、それほどまでに私たちの「当たり前」に深く根付いているのだから。

そして、入れ替わりによって変化した「当たり前」を坂平は徐々に受け入れていく。

この「移ろいやすさ」ともいえる「当たり前」を受け入れる過程は読者にとって読み応えのあるものになっている。本書を読むうえでぜひ注目してほしいポイントだ。

自分の人生を生きるということ

本文を読んでいる方のなかに「キャラ」を演じたことがある人はいるだろうか。

ここでいう「キャラ」とは、学生時代のクラスや仲のいいグループに自分の居場所を得ようとして演じる「キャラ」のことだ。

そして本書でも坂平は水村という「キャラ」を演じようとする。

元の身体に戻ったとき、水村の人間関係や居場所をそのままにしておきたかったからだ。しかし、この試みは失敗する。

水村として振る舞おうとすればするほど何が正解か分からなくなり、嫌われてはいけないと相槌を打つことしかできなくなった

昼の弁当を一人で食べるようになった。水村まなみは、居場所を失った

しかし大人になればなるほど「キャラ」を演じるということに執着しなくなっていくのではないだろうか。人に合わせるよりも自分の人生をしっかりと歩まなくてはいけなくなるからだ。

本書も子どもから大人になる過程の、そのような変化を捉えている場面がある

ある日、坂平は水村自身から次のように言われてしまう。

戻ったときそのほうがいいとか、情報共有しやすいからとか、そういう理由で将来を決めるの、やめたほうがいいと思う。(…)私を言い訳にして先を見据えることを放棄しないで

その言葉に対し、坂平も「ならば俺も、水村まなみを演じるのはやめよう」と決意する。

その決意のとおり、それ以降坂平は水村まなみというキャラを演じなくなる。しかし、このことは男性としての坂平を取り戻すことではなく、今の自分を受け入れつつ、自分の人生を生きていくという決意だ。

このあと、坂平が誰と出会い、どのような人間関係を紡ぎ、どういう人生を歩んでいくのかは、ぜひ本書を読んでもらいたい。

その人生の歩みの一歩一歩が本書では繊細に描かれている。これが本書の大きな魅力となっている。

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「私らしさ」の正体

ところで、本文を読んでいただいている方は「個性」という言葉にどのようなイメージをもっているだろうか。

著者は、「個性」という言葉に対し宝石のような鉱物のイメージを抱く。「個性を尊重していく」や「個性を伸ばす」というような一文には、宝石の原石を磨くという動作を連想してしまう。

だが、前節までのことを踏まえ、改めて「個性」や「私らしさ」を考えてみると先のイメージを覆す大切なメッセージが見えてくる。

どういうことか。

坂平は水村ではない自分の人生を歩む決意をしたことは既に述べた。また坂平が社会のなかにある「らしさ」を受け入れ徐々に変化していったことも指摘した。

「個性」が社会の「当たり前」を受け入れつつ変化するならば「個性」や「私らしさ」は、脆く曖昧なものでしかない。

「個性」や「私らしさ」というものが実は脆く曖昧であるというイメージは有名な童話作家である宮沢賢治も持っていたのだろう。

わたくしといふ現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です(『春と修羅』)

では「私らしさ」や「個性」などというものは本当は存在しないのだろうか。宮沢賢治がいうようにただの「現象」に近いものなのだろうか。

たとえそうであったとしても、人間は「私らしさ」や「本当の自分」というものを信じたくなるし、それを失うことは怖いはずだ。

本書でも「本当の自分」──つまり、元の身体に戻れないことに恐怖するシーンが何度も登場する。

怖かった。もう二度と俺は男として、坂平陸として生きることはできないかもしれない

そして本書は、繰り返されるこのような動揺のうえに成り立っている。

しかし、そんな坂平のことを心配する水村や、坂平自身が大切にしたいと思っている人が坂平を支えている。その支えが、単なる「現象」ではない「かけがえのない私」を本書で浮き上がらせているのだ

坂平の人生は色々な人との関係によって支えられ、作られている。そして支えられた人生によって新たに人間関係が紡がれる。そのことが「私らしさ」となり「かけがえのない私」を作り上げる。

だから「人は一人で生きていけない」と言われるのだろう。

本書に宿るメッセージは、そんな当たり前だが大切なことように思えてならない。

まとめ

昨今「私らしい生き方」が世間では称賛されている。

しかし本書を読み、上述したような感想を抱いた筆者は「私らしい」ことを本当に分かっている人はとても少ないのではないかと思った。「私らしい」とは色々な人との関係のなかで絶え間なく更新されていくものなのかもしれないのだから。

そうであれば「私らしい生き方」というのは、自分だけで決められるものではないのではないだろうか。

だからこそ私は、本書をぜひ手にとってもらいたいと思う。本文の内容によって、本書を手に取っていただけたらとても嬉しい。そのことが読者の「私らしさ」を作ることに繋がるかもしれないからだ。

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