女装ショタ犯罪、もとい万歳。
……なんていうとニッチな性癖に分類されてしまいかねない。
男の娘が市民権を得ている今なら同意してくれるマニアもそこそこいそうだ(と勝手に思ってる)が、何故男の子が女の子のかっこをしてると萌えてしまうのか。
今回はもう一歩突っ込んで『アマリリス 福島鉄平短編集』から検証していきたい。
可哀想で可愛い、薄幸の生い立ち
本作の主人公ジャンは11歳の少年。
もともと優等生のサッカー少年で友達にも恵まれていたが、蒸発した母親の借金のカタに「へんたいのおじさん」に売られてしまい、キラキラした彼の世界は一変する。
かわいそうとかわいいはよく似ている。
けなげないい子であればあるほどいじめたい汚したい、そんなSっけがむくむくもたげてこないだろうか。
もちろん女装ショタのすべてが不幸な生い立ちとも、けなげな性格とも限らないのだが、急転直下の落差がエグいほど倒錯的な興奮を感じてしまうのだから、女装ショタ萌えはなかなかに業が深い。
「きれいはきたない、きたないはきれい」揺れる思春期
おとなのお店で働きだしたジャンは大好きだったサッカーもやめてしまい、学校の成績は落ち込む一方。
「きれいはきたない、きたないはきれい」はシェイクスピアの戯曲『マクベス』の名言。
「ぼくはきたない」と俯いて同年代の友達から遠ざかる女装ショタの姿はいじらしさ極まり、心根のピュアさに反して失われてゆくイノセンスのきらめきは美しく、ヴァニタス(人生の儚さの寓意)に富む。
汚れた自分といたら皆も汚れてしまうから。
汚れてない皆が眩しすぎて、汚れてしまった自分がますますみじめになっていくから。
「よごれている」と自分を恥じれるのは、彼が「よごれてない」からにほかならない。
たとえ女の子のかっこでおじさんにお酌をし、あちこちおさわりされていても、心はヴァージンのままなのだ。
女装ショタの魅力とは、女装に強い違和感を覚えながらもその姿でおじさんを接待しなければいけない自分を「汚い」と卑下する、思春期特有の潔癖さとジェンダーの葛藤にあるのではないか。
友人と一線を越えるドキドキ
やがてジャンにはポールという新たな友人ができる。
2人は年相応に楽しいひとときを過ごすが、自分と一緒にいると彼まで汚れてしまうんじゃないかと怯え、ジャンはこの関係に終止符を打とうとする。
「女の子として扱えば女の子になるんだよ」は漫画『幽麗塔』のモブおじさんが放った迷言だが、最初は健全メンタルの男の子でも女装を続けるうちに心がメス化し、同性の友人にキスする障壁ががくんと下がるのは女装ショタによくあること。
友達をやめるには友達以上の行為に及ぶのがてっとりばやい故、キスするのは間違ってないのだが、絶交を覚悟してたらうっかり恋愛感情が目覚めてしまって……というのが、女装ショタ萌えの沼である。
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