『ボッコちゃん』あらすじと感想【SFは人類への希望か、それとも皮肉か】

『ボッコちゃん』書影画像

科学が発達し、お店に行かなくても買い物ができ、遠くの国の人と繋がることができ、近くにいなくても声が聞ける。

大正から昭和、平成を生きた科学者出身の作家、星新一がまるで未来を予測するかのように描くSFショートショート集。

こんな人におすすめ!

  • SF初心者の人
  • やさしいSFが読みたい人
  • 予想だにしない結末が読みたい人

あらすじ・内容紹介

ロボットへの破滅的な愛を描いた表題作「ボッコちゃん」。

臭いものにはふたをの精神の人類への警告「おーい、でてこい」。

別れたがために自殺した女性がこちらへ手を伸ばしてくる「追い越し」。

大のお気に入りの時計が示すホラーのような展開「愛用の時計」。

賄賂がこの世のすべてを支配し、子供まで賄賂を使い、何事も賄賂で成り立つ世界を描く「マネー・エイジ」。

人間の欲深さ、発達し過ぎた科学の未来、公害、環境破壊、宇宙進出、現れる宇宙人、そして人類の滅亡。

果たして人間にとって「便利になること」は必要不可欠で、ゆきとどいた生活は幸福をもたらすのか。

科学の発達と、それに伴う代償を鮮やかな筆致で描く、星新一(ほし しんいち)の代表作。

『ボッコちゃん』の感想・特徴(ネタバレなし)

星新一が想像していた未来に生きる私たち

ときに科学は、予想だにしない発達をする。

例えば、1996年に誕生した羊のドリー。

親とまったく同じ遺伝子を持つドリーは、世界で初めてのクローン羊である。

そしてそこから進むこと、22年後の2018年。

次は、飼っているペットの細胞を生前に保存しておいて、死後、そのペットの完璧なクローンを生む技術を中国の企業がビジネス化した。

携帯電話が生まれ、指一本で買い物ができ、スタンプだけで友達に返信をする時代が到来したのだ。

星新一は、1926年(大正15年)に生まれて1997年(平成9年)に亡くなった。

科学者出身の彼は、どこまでこの時代のことを予想していたのだろう。

 

本書に「闇の眼」という作品が収録されている。

これには、暗闇でも物が見え、位置もきちんと分かり、生活していくうえで光を必要としない「特殊な」子供が登場する。

ラストの明かされる子供の正体の衝撃たるや。

かなりの恐怖を覚えた。

今も進行中の「遺伝子操作」を匂わせる作品である。

 

「暑さ」という作品は、暑さでおかしくなると「何か」を殺してしまう男の狂気である。

殺してしまう「何か」を男はエスカレートさせていくのだが、警察に話してもとりあってくれない。

近年、異常気象による猛烈な暑さが夏になると襲ってくるが、この男のように暑さで気がおかしくなる人がでてきてもおかしくはない。

星新一の生きていた時代には若干にしか問題視されなかった「地球温暖化」を示唆しているようだ。

地球温暖化が本格的に問題視されたのは1992年のことだから、星新一は21年も前から地球温暖化のことを憂いていたのかもしれない。

科学者だった彼は、科学の発展、発達をある程度想像し、予測していたかのような作品がいくつもある。

先の「闇の眼」は遺伝子操作、「暑さ」は地球温暖化、「愛用の時計」はスマートウォッチ、「ボッコちゃん」は人型ロボット、「ゆきとどいた生活」はAIの台頭、「おーい、でてこい」は環境破壊。

星新一から見た科学の発達が、きっと「明るい未来を訪れさせるもの」ではなく、「人間を堕落させ、退化させるもの」だと思っていた傾向があったのかもしれない。

彼の心配した未来は、今も現在進行形で彼の科学を憂慮した小説を具現化している。

ただし、星新一は「最後の地球人」という作品でこう締めくくっている。

だれに教えられたわけでもなかったが、そのやるべきことの全部を知っているような気がした

この文章が唯一、星新一からの未来を生きる私たちへ残されたポジティブなメッセージだ。

だとしたら、環境破壊や地球温暖化などについて、私たちがやらないといけないことは分かっているはずだ。

彼が「ほら、言わんこっちゃない」と空の上で言われないような未来を創っていくために、『ボッコちゃん』はぜひ読み継がれていってほしい。

キャラクター性に頼らない物語力

星新一の作品の特徴に一つに登場人物が印象に残らないというものがある。

「エス氏」や「エヌ氏」だったり、「氏」の部分がただ「博士」になっていたり。

例えば「山田」とか「花子」といった固有名詞が一切出てこないのだ。

それがどことなく登場人物を記号的に感じる要因だ。

私が愛読している読書漫画『バーナード嬢曰く』に登場する神林しおりという少女も、星新一の登場人物について、「背景を持たない記号的な人物しか登場してない」と言っている。

「だから印象に残りにくい」とも。

近年の小説は、キャラクターをとても大切にしている。

キャラクターの個性が物語を動かしていると言っても過言ではない

「キャラクター小説」という言葉まで生まれているくらいなのだから。

別にそれが悪いと言っているのではなく。

各々、個性の強いキャラクターは感情移入がしやすく、小説を読むうえで「共感できる」というのはとても大切だから個性の強いキャラクターはもてはやされるし、逆に個性がないことが個性というものもある。

けれど、星新一の物語に「キャラクター」を求めてはいけない。

出て来る登場人物、ありふれた人間なのだ。

この「ありふれた」というのは決して悪い意味ではないのだ。

どこにでもいる「人間の本質」をそのまま現したような登場人物なので、いちがいに「あぁ、バカな人」とも思えない。

思わぬ展開に目を覆いたくなる行動をとる人物ばかりだったりするのだ。

星新一はキャラクターに頼ることなく、あえて登場人物を記号のように扱い、彼の想像力、そして知識で物語力を発揮する。

つまり、キャラクターに重点を置かず、一つ一つの物語の本質に気づいてもらうために、登場人物をシンプルにするという工夫が施されているのだ。

星新一がそこまで計算し尽くして物語を作ったかどうかわからない。

あくまで推測の領域を出ないのだけど、星新一はきっと私たちにどストライクに言葉にせず、暗に「あれ、このままだとこの人たち死ぬんじゃないのか?」と示すことで、ショートショートという短い物語の中で手に汗握ったり、緊張したり、ハラハラしたり、より楽しめるような仕組みを作ったのだと思う。

記号的な登場人物たちが生み出す不思議で、それでいて物語自体は強烈で、ぞわぞわする効果をぜひ楽しんでほしい。

SFは実はホラー?

「闇の眼」では子供に関するホラー。

「追い越し」では心理的ホラー。

「診断」では精神が狂うホラー。

「愛用の時計」では進み過ぎた科学のホラー。

 

必ずしもSFではないけれど、この本にはホラーが詰まっている。

ただただ登場するのは、人間の狂気だったり、心の闇だったり、止められない欲の衝動……。

だから、とても怖い。

いつ自分が「そちら側へ」堕ちるか分からない。

あるいは他人が「そちら側へ」落ちる手伝いをしてしまうかもしれない。

無意識のうちに人間の本性をさらけ出してしまう場面に出くわすと、私たちは目をつぶりたくなってしまう。

 

「こんなの私じゃない」

「あんなの僕じゃない」

 

「悪魔」という作品で、欲に目がくらんだエス氏の末路は、だれもが持つ「あれも欲しい」「これも欲しい」「もっと欲しい」という底知れない物欲を現している。

悪魔は途中で、

「まあ、これくらいでやめたらどうだ」

と、止めに入るのだが、これが悪魔の形を取っているが人間の「理性」を現しているのだろう。

しかし、エス氏は止まらない。

「そう、おっしゃらずに、もう少し。こんど一回でけっこうです。お願いですから、あと一回だけ」

理性の働かなかった人間の末路とは、こういうものだとまざまざと見せつけられた。

お化けもゾンビも怪物も登場しない。

ただひたすらに「人間」という生き物の本質を見せつけられることがいかに私たちに痛みを伴うことで、どんな心霊ホラー的な展開よりも怖いことか。

星新一はそれを科学を使って伝えようとしている。

このメッセージをどう受け止めるかは、私たちにかかっている。

つまり委ねられているのだ。

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まとめ

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