映画化され人気を博したスティーブン・キングの傑作ホラー、『IT』。
個人的には正月にNHKでやっていたドラマ版の印象が強い。
本作は恐怖の象徴としてピエロが機能する。
思い返せばホラー映画でピエロは人気者だ。
シリアルキラーとピエロもセットで語られている。
人々はなぜ、こうもピエロを恐れ忌避するのだろうか?
その心理を解剖していきたい。
怖いのは常に笑顔だから。笑顔は時に威圧だ!
ピエロというと真っ先に何を連想するだろうか。
白塗り厚化粧と真っ赤で大きな口、丸い赤っ鼻が世間に定着したイメージであろうことは想像に難くない。
世界中で通じる、恐らく一番オーソドックスなピエロのイメージである。
ピエロのルーツは、中世の芝居で前座を務めた芸人。
滑稽な独り芝居や曲芸で観客を沸かせるのが仕事だ。
ちなみにクラウンとピエロは分けて語られる。
ピエロンはクラウンよりさらに馬鹿げた芝居をし、客の笑い者にされる道化だった。
「おどける」の語源が「道化」をもじっているのは有名だ。
さらにクラウンとピエロの見分け方として、ピエロにはある涙のメイクがクラウンにはない。
ピエロは運命にいじめられ、さらに人にいじられて泣く、不幸で不条理な喜劇の演じ手なのだ。
映画『ジョーカー』を見た人ならこの論に納得していただけるかもしれない。
『IT』のピエロは常に笑顔だ。
子供たちを脅す時でさえニコニコ笑っている。
これは人間の情動として極めて不条理だ。
人は怖ければ泣き、嬉しければ笑い、感情に起因する喜怒哀楽を表現する。
ピエロにはこの常識が通用しない。
私は子供の頃からカーネルサンダースやドナルド・マクドナルドに不気味さを感じていた。
親が抱っこしてそばへ連れていこうものなら泣きじゃくった。
時に笑顔は威圧だ。
「さあお前も笑え、笑顔になれ」と強制してくる。
人に嗤われるのが仕事のピエロたちは、よもや世間を恨み復讐を企んではいまいか?
悪ガキどもに殴る蹴るされながら笑っているドナルド・マクドナルドの人形を見ていると、そんな被害妄想さえ募り行く。
怖いのは子供の味方だから。裏切られた時のショックがでかい!
ピエロとは本来子供の味方である。
日本人にはちょっとわかりにくい感覚かもしれないが、欧米の子どもたちはみんなピエロが大好きだ。
今はどうだか知らないが、少なくとも移動サーカスが一種のお祭りとして行く先々で喜ばれた時代には、開演のビラをまくピエロに警戒する子どもはいなかった。
アメリカの子どもの誕生会にはケータリングピエロが招待され、曲芸や手品を演じることも日常的なので、そもそもピエロを警戒する意識が低いのだ。
ニコニコ笑顔で子どもと仲良し、常に子どもの味方で友達。
だからこそ裏切られた時のショックがでかい。
『IT』のピエロは人懐こい笑顔と気さくな振る舞いででひとりぼっちの子どもに近付き、味方のふりして下水道にひきずりこむのだから、まさしくゲスの所業である。
なおシリアルキラーのジョン・ウェイン・ゲイシーは、ピエロの格好でしばしばボランティア活動をしており、獄中後もおのれのアイコンである不気味なピエロの絵を描いていた。
彼が描いた絵はオークションにて高値で競り落とされたそうだ。
子どもの味方のような顔をしていても、本質的にそうとは限らないのがピエロの恐ろしいところだ。
彼らは笑われ役のメイクで世間を欺き、次の獲物を物色しているのかもしれない。
怖いのは非日常性の象徴だから。日常が浸蝕される!
ピエロが怖いのは非日常性の象徴だからである。
彼らが属するサーカスは、少し前まで娯楽の少ない村や町の人々にとって最大の娯楽だった。
サーカスが提供する非日常のパフォーマンスは、労働者に拍手喝采をもって迎えられた。
ピエロの背後にはその非日常性が見え隠れする。
もちろん、ホラー作品のピエロが体現するのはネガティブな方面の非日常性だ。
サーカスはハレの日の象徴だが、そこから落ちこぼれたピエロには闇が集まる。
『IT』のピエロは100年近く前の写真にひょっこり紛れ込み、雑踏の中で曲芸をこなしていたが、周囲の人々は見向きもせず通り過ぎていく。
このシーンはピエロがじりじり近付いてくるプレッシャーがとても怖い。
日常が非日常に浸蝕される、リアルな恐怖感を味わった。
ピエロは非日常の世界からやってくる。
私たちは本能的にそれを知っているのかもしれない。
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