「有言実行」と「不言実行」。
世間一般的によく使われるのは「有言実行」だが、実は「不言実行」の方が先にできた言葉だということをご存知だろうか。
何も語らず、ただひたすらに行動で示す不言実行は、有言実行よりもずっと困難だ。
だが、鈴木一はやりきった。
鈴木一――金城一紀著『フライ,ダディ,フライ』の主人公である、冴えない中年オヤジだ。
愛する娘のため、ひと夏をかけてある戦いに挑んだ鈴木一。
この記事では、大切な家族や同僚には何も打ち明けず、不言実行を貫いた男・鈴木一のひと夏を追う。
日常に疲れている人や、何かから逃げ出したくなっている人、年頃の娘が自分を見る目が最近なんだか冷たいような……と感じている人にこそ、ぜひ最後までご覧いただきたい。
その日、鈴木一はヒーローになれなかった
鈴木一がいつものように帰宅すると、リビングには灯がついていなかった。
残されたメモによると、妻は娘を連れて病院にいるらしい。
胸騒ぎを覚えながら指定された病院へ向かうと、そこには娘の変わり果てた姿があった。
命に別状はないものの、顔や体を手ひどく殴られ、無残にもあちこちが腫れ上がっている。
娘に暴行を働いたのは、石原という男子高校生だった。
ナンパについてきた娘とカラオケを楽しんでいたが、やがて口論となり、カッとなってつい手を出してしまったのだと言う。
あまりの事態に動転した鈴木一は、助けを求めて差し伸べられた娘の手を取ってやることができなかった。
不遜な態度の石原に怒り、激しく詰め寄ろうとするも、ボクシングの高校生チャンピオンである石原を前に何もすることができなかった。
その日、鈴木一はヒーローになれなかったのだ。
鈴木一は、腹回りに中性脂肪を蓄えた、しがない中年オヤジでしかなかった。
燃え上がる復讐心と奇妙な出会い
その後の詳細は本コラムの目的から逸脱するので割愛するが、とにかく、復讐心に駆られた鈴木一は、不思議な縁に導かれて四人の落ちこぼれ男子高校生に出会う。
そのうちのひとり、南方は、鈴木一から事情を聞くとこう言った。
「どうです? 僕たちにすべてを任せてみるつもりはありませんか?」
自分たちは、鈴木一と石原が闘うための最高の舞台を用意する。
だから、それまでの間に朴舜臣(パク・スンシン)とトレーニングを重ねて強くなれと言うのだ。
朴舜臣は、石原を襲おうと高校に乗り込んできた鈴木一を一撃で伸してしまった猛者である。
その実力は折り紙付きだ。
罠じゃないかと疑う鈴木一だったが、自分ひとりではとても復讐を果たせそうもない。
やがて、戸惑いながらも、南方が差し出した握手に応じるのだった。
期間はひと夏。
冴えない中年オヤジの闘いが幕を開けた――。
情けない姿を晒しながらも、鈴木一は諦めなかった
トレーニングは早速翌朝から始まった。
4キロのジョギング、神社の石段登り、ロープ登り。
なんの運動もしていなかった鈴木一が、最初からそれらをこなせるはずもない。
荒い息を吐いて地面に横たわる鈴木一は、360度、どこから見ても無様だった。
でも、決して諦めなかった。
朴舜臣から言われたこと以外に、自分なりに考えたトレーニングも始めた。
いつも最寄り駅から自宅近くまで乗っているバスに、走っての競争を挑んだのだ。
バス対生身の人間。
それも、ずいぶんと久しぶりに体を動かしたばかりの中年オヤジである。
勝負は最初から見えていた。
でも、決して諦めなかった。
そうして、鈴木一と朴舜臣は、毎日のようにトレーニングに明け暮れた。
会社からは、ほとんど事情も説明しないまま、半ば無理やり長期の有給を取ってある。
もう後戻りはできなかった。
至近距離から投げられたボールを交わすトレーニング。
朴舜臣を相手にタックルを決めるトレーニング。
想像の中で、何度も何度も石原と闘うトレーニング。
鈴木一は、朴舜臣から命じられたトレーニングを愚直にこなしていく。
最初は決められたノルマもろくに達成できずにいた鈴木一だったが、気付けばジョギングの距離は5キロに伸び、神社の石段は最上段まで踵をつかずに登れるようになり、ついにはロープも登り切ることができた。
決闘前日には、到底勝ち越すことなどできないと思われたバスを相手に、初の勝利を収めることもできた。
始めたばかりの頃は、何ひとつうまくできなかった。
何度も体に痣を作った。
それでも、鈴木一は決して諦めなかった。逃げなかった。
時々弱音は吐いたが、後悔だけはしなかった。
そして、自分の努力と決意を誰に明かすこともしなかった。
ただ娘への思いを胸に、黙って「不言実行」を貫いたのだ。
そして、夏休み明けの9月1日。
石原が通うエリート校の始業式の舞台が、南方たち落ちこぼれ校の生徒らによって、決戦のリングへと変貌する。
両校の生徒が固唾をのんで見守る中、ついに鈴木一と石原が対峙するのだが……。
不格好でもいい。やり遂げることが大事だ
鈴木一はやり遂げた。
ひと夏をかけて自分の体を苛め抜き、鍛え上げるという過酷な試練を乗り越えた。
すべては愛する娘のため、家族のため。
娘の心を傷つけた男を倒し、「父さんが守ってやる」と示すため。
その姿は決してスマートではなかった。
順風満帆でもなかったが、それでも決して立ち止まりはしなかった。
そして、鈴木一の努力は、その行動を通して娘と妻の心にもしっかり届いていた。
愚直で真摯な行動は、いつだって誰かの心を動かす。
たとえ不格好でも、最初はうまくいかなくても、やり続けることが何かに繋がる。
やり続けてやり続けて、ようやく何かを掴むことができるのだ。
鈴木一は、凡庸でうだつの上がらない中年オヤジだ。
だが、決して諦めなかった彼こそ「格好いいオヤジ」なんだと私は思う。
そんな格好いいオヤジ、鈴木一と石原の対決の結末はどうなったのか。
気になる人は、ぜひ『フライ,ダディ,フライ』をご覧いただきたい。
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