人類史において最初の殺しはカインによる弟アベル殺しである。
そもそもアダムとイブが楽園を追われたのは禁を破って知恵の実を食べたからで、我々の歴史は罪を犯した事から始まったともいえるのだ。
今回はドイツの弁護士フェルディナント・フォン・シーラッハの小説、『犯罪』『罪悪』から、犯罪のメカニズムを検証していきたい。
集団心理が凶行に走らせる
本作では田舎町のフェスティバルで起きた集団レイプ事件が取り上げられている。
加害者の男たちはいずれも良き家庭人で、地元では信頼篤く、1人1人は善良と評価されていた。
ここに集団心理の怖さがある。
彼らが女子学生の輪姦に及んだのは、祭りで酒が入りハイテンションになっていたのに加え、「俺のせいじゃない」「皆やってたから合わせただけだ」と、責任を分散できる状況が整ってしまったからだ。
罪悪感は頭分けすると薄まる。
加害者が増えた分だけ良心は希釈され、連帯責任の大義は免罪符に裏返る。
俺「だけ」が悪いんじゃない、アイツら「も」同罪。
そうして自分の罪を正当化した時、人間はケダモノに堕ちるのだ。
酔いが醒めた加害者が保身に徹し、口裏を合わせてとぼけるなら真実は容易く隠蔽されてしまう。
そうなったらどんなに正義の裁きを望んだところで被害者は救われまい。
長年連れ添った夫婦のすれ違い
本作では数十年連れ添った夫婦の破滅も描かれた。
ある初老の男性は一生愛すると誓った妻を手にかけてしまうが、それも仕方ないと思わせるほど、妻のヒステリックな言動に心身をすり減らしていたことが法廷で明らかになる。
加害者に同情する、というのは褒められた反応ではないかもしれないが、正当防衛に限らずとも同情を禁じ得ない加害者はまれに存在する。
彼は今回たまたま加害者になっただけで、それ以前はずっと被害者だったのだ。
病める時も健やかなる時も共に在り支え合うと誓いを立てたところで、誰もがパートナーと円満な関係を築けるわけではないし、悩みを洗いざらい打ち明けられるわけでもない。
セックスに関わる問題なら余計だ。
親子は血の繋がった他人かもしれないが、赤の他人同士が結ばれた夫婦なら尚更、互いの歩み寄りなくして家庭生活は継続できないのだった。
被害者が加害者になる不幸の連鎖
本作には隣人に犯され、自覚のないまま妊娠してしまった少女が登場する。
彼女は自宅のトイレで産んだ赤ん坊を殺し、駐車場に遺棄してしまうのだが、こうなる前に誰も手をさしのべなかったことが最大の不幸に思えてならない。
劣悪な環境に生まれ落ち、周囲に虐げられてきた被害者が、さらに弱い者を虐げる社会構造こそ犯罪の温床となり得る。
心ある人々が今動いて救わなければ、現在の被害者は将来の加害者になってしまうのだ。
もし行政の適切な援助が得られていたら、彼女は隣人の来訪に怯えずにすみ、トイレで産み落とした子を殺さなくてよかったのかもしれないと想像すると胸が痛む。
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